三十路からのデスマーチ

何気ない日常がもしかしたら誰かの役に立つかもしれない。

映画「キャラクター」の殺人鬼造形がすごかった話。

映画の花形と言えばやはり殺人鬼だと思うのですよ。

十三日の金曜日の初代ジェイソン、悪魔のいけにえの食人鬼ファミリー、セブンのジョン・ドゥ、羊たちの沈黙レクター博士、SAWシリーズのジグソウ。幽霊や怪物系キャラとは違い、人間の殺人鬼というのは「隣に引っ越して来たらどうしよう」という恐怖があります。

個人的に、「殺人は手段であって目的ではない。(その過程を楽しむことは可)」という殺人鬼が好きなので、映画「キャラクター」の殺人鬼がどういう造形なのかとても気になっていました。

キャラクターは、殺人事件の犯人を漫画のキャラクターにしたら大ヒットしてしまい、後ろめたさを感じながらも漫画を描いていたら、その殺人鬼が「僕を描いてくれてありがとうございます。」とやってくる話です。

漫画家さんなら「僕を描いてくれてありがとうございます。」というやばい人に付きまとわれた経験がある人もいるようですが、この映画ではガチの殺人鬼をキャラクターにしたら本人が嬉しくなって会いに来ちゃって、漫画の再現をせっせとしてしまうというサスペンスホラーです。

映画のストーリーは分かりやすく、しかも伏線回収もきれいなのです。

主人公が漫画がヒットしてから住み始めた家は三重のオートロックのかかったセキュリティ対策万全のマンションで、「もしかしたらあの殺人鬼がいつかくるかもしれない」という不安が感じ取れます。

実家に挨拶に行くのに、自分の家とは思えないよそよそしい雰囲気や不自然とも思える仏壇に手を合わせるシーンと、無駄なものが何一つなく回収されています。

殺人鬼を追う刑事の二人組はベテラン新人というコンビなのですが、警察署内では新人をベテランがたしなめるのに対し、一般人や主人公への聞き込みの際は逆にベテランを新人がたしなめつつスムーズに進めていくという、二人のパワーバランスが分かりやすく描写されています。

そして、主人公の妻のキャラクターも、よくある「いつまでも夢なんか追いかけてないで、将来のことを考えてよ」とは言わず、これで最後と決めて出版社に持ち込みにいったけれど良い結果が得られなかった主人公に対して「続けていいんだよ。」と言う協力的なパートナー。

彼女は主人公の作品ができると一番に目を通し、その才能を理解していて、いつかきっと夢は叶うと信じてくれていたエピソードもくどくなく盛り込まれています。

若い刑事の清田も、主人公が殺人鬼の顔を見たことを黙っていたことを強く責めず、もう漫画は描きませんという主人公に、「山城さんの漫画好きだよ。新作楽しみにしてるから。」と応援してくれてるのです。

主人公の周りには基本彼の理解者で彼を応援してくれる人ばかりなのです。

多分主人公は、なんで皆こんなに僕に優しくしてくれるの?と某アニメの主人公のように感じたでしょう。

それがもしかしたら、「あいつはいいやつだから、悪人は描けない」という言葉に対しての「いいやつだから、みんな応援してるし、絵も上手いから、きっと夢は叶う」という周りからの応援なのかもしれません。

 

そんな主人公の分かりやすさに比べて、殺人鬼こと両角(偽名)はおそらく彼はこういう生い立ちなのだろうという情報はありますが、過去について自分から語りません。

ピンク色の髪に、緑色の地味なジャージと、黒いコートといういでたちで、幸せな四人家族に固執し、奇妙な仕草を見せて、やや幼さの残る口調で話し、時々早口になる青年。

両角の言葉遣いは中学生くらいの少年のような幼さを感じられるのですが、犯行においてはIQの高さを見せて、そのアンバランスさが両角というキャラクターの魅力の一つです。

 

日本の代表的な殺人鬼と言えば「黒い家」の菰田幸子や「オーディション」の山﨑麻美のように、一見おとなしそうだけど、どこか奇妙に感じる造形をしていました。菰田幸子は喋り方や、我が子が首を吊ったのに保険金を求める異常性。山﨑麻美は黒電話の前で長い髪を垂らして延々と座り込んでいる異常性(さらにその部屋の奥にある、中身の見えない袋が動く)。

二人供過去の生い立ちがうっすら見えるのですが、考察の余地というか、考えれば考えるほど恐ろしくなるような恐怖がありました。

両角にも二人に共通するところがあり、彼の生い立ちの詳細には、考えれば考えるほど恐ろしいものがあります。

彼はとあるコミュニティにいたということを察する情報があるのですが、両角自身が語っているわけではないのです。

そのコミュニティは四人家族こそが最も幸福な存在としているのですが、そうだとすると少し不自然な点があります。

両角自身はその幸せを眺めているのです。

彼自身はその幸せの中に入っていないのです。

映画で語られている両角の情報は、四人家族を幸福の最高な形とするコミュニティで生まれた。彼自身には戸籍も名前もない、両角という名前も戸籍を買ったものということ。

両角は「血のつながった幸せな四人家族」に固執していました。養子や再婚、家庭不和のある存在は認めません。

彼はそれを眺めているのです。

自宅に笑顔のモチーフを四つ描いて話しかけているのですが、もし両角自身が幸せな四人家族として完成したいのであれば、顔は三つしかないはずですが、両角は四つ描いています。

これは何を表しているのか。

四人家族が至上とされるコミュニティにいたとして、それを眺める存在となった彼は、そこでどういう扱いを受けていたのか。

ひょっとして両角は、そのコミュニティの中で存在してはいけない五人目の家族として生まれてしまったのか、もしくは病死などで家族が欠けてしまい、四人家族として認められず不遇な扱いをうけていたのではないか。

映画の最後の言葉で、彼にとって自分の存在は周りにはなかったことにされていたのではないかと推測できます。

だからこそ、自分の客観的キャラクターを与えた、自分を大勢の観衆の前に晒し、自分の存在を認めさせた山城に、あんなに嬉しそうに接触したのではないかと推測できます。

両角にとって殺人は幸せな四人家族を永遠にするということだったのではないかと思います。

そこに自分は存在していないし、その中にはいるつもりはなかった。そんなこと考えもしなかったし、誰かが自分の存在を認めるとも思えなかった。

山城が自分を殺人鬼「ダガー」として描くまでは。

分かりやすさやを残しつつ、考察の余地もあり、最後にじわっと嫌な感触を残す映画「キャラクター」は、邦画界の殺人鬼として忘れられない存在になると思います。

この殺人鬼を演じているのが、役者ではなく歌手のFukaseさんなので「本業じゃないじゃん。」と思って観ないでいる方にも是非見て欲しい、名作です。

主人公役の菅田さんにセリフを覚えられず舌打ちされる悪夢を見るほど真剣に映画にとりくみ、なおかつ「役者じゃないのにどうしてこんなに異常者の演技がうまいのか。もしかして身近にいたのか。」と思ってしまうほどの素晴らしい殺人鬼っぷりを演じています。