三十路からのデスマーチ

何気ない日常がもしかしたら誰かの役に立つかもしれない。

孤独を肯定する稀有な作品「ちひろさん」

元風俗嬢のちひろさんは海辺の地元に根付いた弁道屋さんで働いている。

名前も元々風俗店で使っていた源氏名

自由気ままに生きている彼女は周りの人を時に振り回し、時に救い、飄々と生きている。

漫画「ちひろさん」は「ショムニ」という一世を風靡したドラマの原作漫画を描いた安田弘之先生の作品。

ネットで広告を見たことがある人もいるのでは。

ちひろさんは女版スナフキンというか、時に誰かの悩みを解きほぐしたりしながら、誰かに依存したりせず生きています。

いいなぁっと思ったお店の、いいなぁっと思った店長が「結婚してください」と結婚指輪を出した瞬間にバツンっとバッテリーが落ちたように縁を切ります。

イケメンだったら受けとった、なんて批判は愚問です。

彼女はドカタで坊主頭の谷口と気分でワンナイトラブを決める人なんです。

結婚、恋愛、そんなもので彼女は酔えないのです。

チーズ牛丼を頼んでいそうな私が言おうものなら「恋愛しないんじゃなくて相手が見つからないだけwww」と言われますが、ちひろさんの実写版は有村架純です。有村架純の姿形が言う、恋愛で酔えない。説得力があります。

ちひろさんは気分が乗らないときは大好きなニューハーフのバジルが大好きなウミウシ展に誘っても「いや、今日はカレー作るんで。」ときっぱり断ります。

そんなんじゃ一人になっちゃうよ? という批判もちひろさんには無縁です。彼女は去る者は追いません。一人が寂しければそのへんの飲み屋にいっておっちゃんたちに溶け込むだけです。

ちひろさんは決して情のない人ではありません。

母親にネグレクトされがちな問題児を諭したり、家族に抑圧される女子高生の支えになったり。

問題解決はしません。本人たちの問題なので。彼女は一瞬、折れそうになった時に、ぼっきりと折れてしまわないように寄り添うだけです。

今だけ、誰かにそばにいてほしいと思った、心折れそうな経験をした人には、共感できるのではないでしょうか。

ちひろさんはよくも悪くも他人を尊重する面があります。

自殺をしようとしていた青年を、熊手で引き止め言い放ったのは「電車は停めるな」です。

結局その青年は死にそびれ、ちひろさんと一緒に潮干狩りをします。

ちひろさんは自殺を批判しません。彼女が止めたのは電車を停めることだけです。

自殺は良くない。

そんな多くの創作で語られることを、ちひろさんは賛美しません。

自殺する人と目が合えば、にこっとほほ笑むでしょう。それだけです。その微笑みに自殺をしようとした人が立ち止まってしまうことはあるでしょうが。

ちひろさんの生き方は、冒頭にあるホームレスの埋葬に現れています。

素性もしらないホームレスの死に立ち合ったなら、警察、もしくは救急車を呼ぶ、もしくは関わりたくないと見なかったことにするでしょう。彼女はそうせずに、誰にも見られないよう自分しか知らない場所に埋葬します。

作中にはそれが刑法に違反すると書かれています。

私もかつて家族の葬儀の際に「この埋葬許可書がないと法に触れますので。」と丁寧に葬儀会社の方から書類を渡されたことがあります。

身内でも書類のない埋葬は三年以下の懲役に処されてしまいます。

ちひろさんがそんな犯罪を躊躇なく犯すのは、彼女の向こう見ずなというか、刹那的というか、故人の遺志に対する敬意の強さを表しています。

どんな生き方をしてきたか知らないけれど、きっと誰にも迷惑かけずにできれば誰にも知られないように息を引き取りたかっただろうと。

浮浪者の死は同情されるより、どこかよそで死ねばいいのにと言われ、身内が判明しても「縁を切ったので」と引き取りを断られるか「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げるか、どちらにしろ故人が望まない、もしくは故人が辱められるだけですから。

死体遺棄をやってのけたちひろさんは不法侵入は日常茶飯事です。秘密基地と称して廃ビルや廃墟に私物を置いて酒盛りをします。

そこが後々、家にも学校にも居場所のない女子高生たちの秘密基地となります。

ちひろさんは孤独な女子高生たちの出会いを見守ります。

彼女は孤独を尊重しますが、人の出会いを否定しません。

ちひろさんの心の中にはお父さんとお母さんを求める少女のままの綾ちゃんが存在します。

ちひろさんは盲目のお弁当屋さんの奥さん多恵さんに惚れて、彼女の退院後一緒に旅行にでかけたりします。子供と疎遠だった多恵さんはちひろさんのことを本当の娘のように受け入れてくれます。

ちひろさんは実母とできなかった触れ合いを、多恵さんのおかげで再現し、幼かった綾ちゃんを解放することができたのです。

飲み友達もでき、お気に入りのお店もあり、ずっと欲しかったお母さんも手に入れたちひろさんは、最後にその町を誰にも言わずに去ります。

彼女の生存報告は、親友のように慕っていたバジルと父親のように慕っていた(実際お父さんになってとお願いして振り回した)元風俗店の店長に画像を、多恵さんには音という形で届きます。

欲しいものを全て手に入れたのに、完成したパズルを自分でひっくり返すような形で物語は終わります。

そこには、あれだけ深くわかりあい交流したはずの人たちへの素っ気なさすらあります。

これだけ周囲を振り回しておいて、と思う人もいるかもしれません。

しかし、本編ではたびたび、ちひろさんの捉えどころのなさが描かれています。

元風俗店の店長は、風俗店時代に出会ったちひろさんを「幽霊みたいな」と評しています。そして「想像のつかない幸せと不幸の中で遊んでる」と彼女の生き方を例えます。

ちひろさんの生き方は「いるよね、こういう人」と思われる一方で、「男女の間に性欲のない感情は存在しない」「家族は一緒にいるべき」「孤独に生きることは間違っている」のどれかが心に在る人には、受け入れることはできません。

けれど、世の中には、その生き方に共感し、呼吸がしやすくなる人がいます。

そういった人たちは「そんなことはない、貴方は間違っている」と言われ続けて生きてきました。

孤独であることがここまで肯定的に締められる作品はとても珍しいです。

人生を生きるために最も必要なのは、いかに不幸から目をそらすかです。

不幸は無限に湧いてくるもの。災害のように訪れます。

その不幸に飲み込まれて沈む時に、ちひろさんのように沈みながら手を振ってくる存在に、やり過ごし方を教えてもらえたらどんな大波も気づいたら乗り越えられるのではないでしょうか。

否定され続けてきた少数派の人たちにこそ、刺さる作品です。

 

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二次元並みの足の長さを誇るリティク・ローシャンの「バンバン!」

トム・クルーズキャメロン・ディアスの主演映画「ナイト&デイ」。ハリウッドが誇る美男美女のアクション映画として当時話題になりました。

それをインドで作り直した本作。

RRRがゴールデングローブ賞で話題となったその波に乗れとばかりに日本でも公開されました。

「ナイト&デイ」をまだ観ていなかった私は、イケメンと美女がなんやかんやあってどんぱちがあるんだろうなというざっくりした雰囲気だけで観に行きました。

びっくりしました。

主演のリティク・ローシャンの足の長さに。

私も長いこと映画を観てきたのでスタイルのいいイケメンは見慣れていたつもりでしたが、明らかに比率がおかしい足の長さ。

ハイヒールを履いたヒロインと腰の高さが同じという驚異の足の長さ。

ネットで足の長さを表すのに「股下〇〇km」という表現がありますが、インド本土をまたにかけられそうなほどの足の長さ。

そんなリティク・ローシャンと絡むヒロイン、カトリーナ・ハイフは尾田栄一郎先生の漫画に出てくるような美しくスタイルの良い美女で、安定の「冴えない女とかいいながらどう見たって美女やないかい」という気持ちが込み上げます。

そんな美男美女がなんかやばいテロリストに追いかけられて逃げ惑いつつ反撃する本作。

人が死ぬコンテンツとは思えないくらい要所要所でコメディが挟まれています。

私が観賞した映画館は席間隔が大変蜜なので、隣の人の笑い声の近さは恋人同士でソファーでテレビを見ているような距離感でした。

ウェイターがメニューを間違えたところで笑い、主人公がヒロインに車で跳ねられたところで笑い、いかにもコメディ枠の悪役の部下が勘違いから着衣のままプールに入ってきたところで笑い、リティク・ローシャンのお色気シーンに固唾をのむ。

しかし本作、笑いだけではないのです。

まさか最初のあれがこんなに胸熱くなる伏線回収になるなんて誰が思ったでしょう。すくなくとも、ドジっ子ウェイターのしょうもない伏線が回収された時には誰にも想像できませんでした。

そして訪れる感動の結末に、思わず鼻をすすってしまった瞬間、挟まれるエンドロール。

なるほど、これがインド映画。カレーセットを頼んだらカレーセットが出てきたような安定感です。

家族、友人、恋人、一人、どんな状況でも楽しませてくれる映画でした。

最後に、ちょっと気になって調べてびっくりしたこと。

インドでは最近トヨタよりスズキが人気らしいということです。

 

これはもはやスポーツ観戦「THE FIRST SLAM DUNK」

日本が世界に誇る人気バスケット漫画「SLAM DUNK」。不良だった主人公が好きな女の子の笑顔が見たくてバスケ部に入り、全国制覇を目指すという物語です。

厳しいキャプテン、無表情で美形のライバル、問題児の先輩、元中学生MVPという個性的な仲間たちは主人公と同じく人気があり、相手高校のキャラクターも負けず劣らず人気がありグッズ化され、キーホルダー等カバンにつけていた読者も多いです。

アニメ化もし、オリジナルストーリーで映画化もしました。

そんな SLAM DUNKを令和で映画化するよということになりネットは騒然。

が、その映像があまりにも当時のアニメとかけ離れたものだったことと、声優がテレビアニメと違うということと、制作陣からの「アニメのふざけたノリが嫌だった」的な発言で大炎上。

その燃え方はすさまじく、公開前は期待度が急降下していました。

そう、まるで突然主要キャラの娘であり、主人公の幼馴染というヒロインが突然はえてきた某海賊漫画の映画のように。

そんな「THE FIRST SLAM DUNK」は公開後にはくるりと反応が変わりました。

まるで主人公の幼馴染というヒロインがなんで原作にもいないんだと嘆かれた某海賊漫画の映画のように。

「THE FIRST SLAM DUNK」は漫画がそのまま動き出したような作品です。

原作・脚本・監督を井上雄彦先生が務めるため、原作ファンには垂涎もの。

本作は主人公の最後の戦い、山王戦を、湘北メンバーの2年生宮城リョータを主人公に描いています。

桜木花道ではないのです。

宮城リョータ。2年生のPG。180cmを超える選手の多い湘北のメンバーの中で168cmと最も小柄ですが、スピードとテクニックに秀で、湘北には欠かせない存在です。

美人マネージャーの彩子に片思いをしていて、試合中も彼女の声援でよそ見をしながら絶妙なパスを出す描写があります。

そんな彼が令和の SLAM DUNKでは主人公!

主人公になった彼には、平成の時とは違う物語が添えられます。

リョータには三つ年上の兄がいました。バスケを教える兄は小さなリョータにも手を抜かず、けれどあきらめず攻めてくる弟をよくやったとぎゅっと抱きしめる優しさを持ち合わせていました。

父を失った家のキャプテンとなり、母や家族を支えてくと言う心意気を見せるリョータの兄は、なんと御年12歳。

え、まだランドセルしょってるんですかこのお兄ちゃん。

予告で見た時は中学生かと(それでも幼すぎる)と思っていたのにまだランドセル。

この時点で涙腺が緩んできます。

しかしバスケがうまく、優しく、頼もしかった兄は釣りに出かけたまま帰らぬ人になり、リョータは約束をした1on1はできなくなってしまいました。

リョータの母は夫と長男を失った沖縄から神奈川へ引っ越しました。

馴染めない学校、狭い団地、一緒に練習する相手もなくバスケットコートでドリブルをしているリョータの前に、一人の少年が現れました。

さわやかな少年はリョータと一緒に1on1をしてくれようとしたのですが、リョータはつい意地を張って帰ってしまいました。

その少年は三井寿

原作の初登場はやべぇ不良として仲間を引き連れて、バスケ部をめちゃくちゃにしようと襲撃をかましますが、赤木に叩かれ、木暮に想いをぶつけられ、不良仲間の堀田から「バスケがしたいんじゃないか」と本心を諭されます。そしてやってきた恩師、安西先生に「バスケがしたいです……。」という姿はスラムダンクを読んだことなくても知っている人もいるくらいの名シーン。

中学生時代はMVPとしてキラキラしていた三井が、孤独なリョータの前に現れ、あの日の兄のように1on1に誘ってくれるという、原作でもこれがあったら当時の読者の情緒がえらいことになっていましたが、原作ではおそらく存在しない記憶。彩子から自分にリョータを重ねていたのではと言われて、リョータも「マジで……」と驚いている描写があります。

しかし映画では突然中学生の時に二人は出会っていたという記憶が生えてきたのです。

そしてリョータは高校生になりました。原作ではバスケ部マネージャーに一目惚れしてバスケ部に入ったのですが、そんなエピソードはなく、ごつくて怖い赤木先輩に叱咤されるリョータ姿がありました。

赤木先輩は全国制覇を目指す努力家で、彼はリョータの的確なパスを認めて、湘北には欠かせないメンバーだと確信していました。

しかし少しひねくれていたリョータはそれを素直に受け取れず、友人のヤス君に「赤木さんは期待しているんだよ」と励まされます。

そこでエンカウントしたのが、ロン毛の不良。

リョータが「この顔どっかで見たことある」と記憶を掘り起こすと出てきたのはあの日1on1に誘ってくれたキラキラとした少年。

原作を読んでいたから知っていたけど、あまりにも最悪な再会に観ているこっちは蒼白。

ここで三井寿が何故不良になったのかという説明はありません。そんなことは原作を読んで知ればいいのです。

しかし令和のコンプライアンスか、リョータはこの暴行事件の後に交通事故をおこして入院したという展開になっていました。

原作では三井の前歯をへし折ったのに、映画ではそのことにも触れられていません。そのためツイッターでは前歯は死守された派と前歯は差し歯に決まってるだろ派にわかれました。

映画がTHE FIRST SLAM DUNKの人には、なぜか三井がキラキラした中学生から、一度ロン毛の不良をはさみ、なぜか傷だらけの顔になりリョータと一緒にバスケ部にやってくるという流れになっています。

原作にはなかった過去が挟まれつつ、山王戦は展開されます。

原作を読んでいない人がついてこれているか、原作履修済の者は少し気になりますが、徐々にそんなことを気にする余裕がなくなります。

原作を読んでいるはずなのに、原作で見たやつだこれと思うのに、先の展開が読めずにハラハラするのです。

私はスポーツ観戦というのに今まで縁がなく、プロ野球も、ワールドカップも、オリンピックすらまったく興味がなくて、手に汗握って応援するということに縁がなかったのですが、湘北チームの健闘に息を呑みながら見入ってしまいました。

劇場の大きなスクリーンと音響のせいで、応援席にいるような気持ちになります。

私は堀田の横でタオルを振り回して叫んでいるのです。心の中では。

映画が終わった後は、疲れて足がふらつきました。

映画を観ていたのか、湘北のIHを観に行っていたのか。

声を出していないのに、さわやかな爽快感を感じながら劇場を後にしました。

観る前は「すごい酷評だな」と思ってしまいましたが、今はひたすら思います。

なるべく事前情報なし見てほしかったんだろうけど、もうちょっとプロモーションの仕方あったのでは……。と。

早い段階で「声優を一新しました」と出してくれれば、これほど燃えることもなかっただろうと……。

しかしすぎたことを言っても仕方がないので、今は思います。

他のキャラでも「THE FIRST SLAM DUNK」やってくれませんかね??

 

 

 

 

 

 

30年分の狂気「マッドゴッド」

ストップモーションアニメ。

写真を一枚一枚とって重ねて作り上げる動画作品。日本で今一番熱いものはフェルトで作ったキャラクターをストップモーションで撮影したアニメ、プイプイモルカーでしょう。

モルモットと車を足して生まれた可愛らしいキャラクター、モルカーがビルを倒したり、海底トンネルを破壊したりする可愛い作品で、大人から子供まで魅了し、某有名ミステリー作家も自宅で量産するほど。

そんな可愛らしいモルモットアニメを作り上げた監督は、マイリトルゴートという七匹の子ヤギをモチーフにした特濃闇深ホラーアニメを作りました。

そう、ストップモーションとホラーは切っても切れないのです。

映画界のマッドゴッドと言われるフィル・ティペット監督が30年かけて病んだり休んだりして作り上げた作品「マッドゴッド」。

PG12のストップモーションアニメ。

惨憺たる世界をスクリーンいっぱいに魅せられた人たちは口々に「どえらいものを見てしまった……!!」と大なり小なり心に何かをねじ込まれて劇場を後にする作品。

 

マッドゴッドの予告を観て気になった人は、PG12に性的要素が含まれるかどうか気になる人もいるかと思います。

性癖は人それぞれなので、地獄のヘドロをかき混ぜるようなこの作品に性的なものを感じる人はいないとは言い切れませんが、まず普通の人は性的要素を感じることはないと思います。

 

マッドゴッドはセリフがほぼありません。セリフなのか鳴き声なのか効果音なのか、判別付かない音はあります。

生き物と思われるものから聞こえるのは基本的に雄たけびや悲鳴や断末魔です。

ストーリーはなく、地獄で行われる弱肉強食や拷問や解剖やなんか気持ち悪い生き物の排せつ物を何か気持ち悪い生き物なのか機械なのか、人工物なのか有機物なのかわからないものが租借したり、そこからなにか別の生き物なのかそうじゃないのかわからないものが生まれて労働し、事故死し、虐げられ、踏みつぶされる様を眺めるのです。

ダークファンタジーというにはあまりにも陰惨で、ホラーというにはあまりに抑揚がなく、狂人の頭の中がスクリーンに出力されたものを眺めるというのが最も近いです。

アサシンという爆弾を抱えた主人公が、めくるたびに進むたびに崩れていく地図を手に、地獄の下を目指す姿を、眺めます。

その目的は知らされることはありません。

彼の意味は爆弾を置くことなのか、それとも彼自身が解剖されたその中にあるのか。

それすら意味もなく、彼はただ無意味に苦痛を味わい続けるのか。

大多数の人の人生が意味もなく終わるといいます。

一見主人公として物語を進めているように見えるアサシンは、簡単に事故死する労働者のシットマンと大差ないのではないのか。彼が踏みつけて気づきもしなかった小人と同じなのではないか。

マッドゴッドを見に来るのは人生にハッピーなことが少なそうな人たちが多そう(偏見)なので、わが身に起きているように感じる人もいるのではないでしょうか。

 

マッドゴッドは30年かけて作り上げた執念の作品です。

監督は「売れるとか特に考えていない」とコメントしていますが、文化圏の違う日本でも刺さって抜けないファンが続出しています。

おそらく、ほとんどの人は、プイプイと動くモルカーを眺めてほっこりし、時には涙し、時には人間の愚かさに嫌気がさすのでしょう。

しかし中には「マッドゴッド」が必要な人がいるのです。

汚物と腐敗の空気をマスク越しに吸い、岩の裏をひっくり返してわっさぁと出てくる無視やミミズを見ることになんか楽しいものを感じてしまう人がいるのです。

そんな大人気なマッドゴッド。売り切れていたパンフレットの再販が12月24日に決まりました。

マッドゴッドファンには最高のクリスマスプレゼントです。

 

 

 

 

 

怒りの映画「RRR」


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日本では昨今人気が出始めたインド映画。

筋肉!アクション!火薬!ダンス!とすっきり爽快で観れるので「つらい時ほど見てほしい」と勧める人の多いジャンルです。

この秋、映画館に行ってやたらとパワフルなインド映画として、「そうはならんはずなのになっとる!!」の連続を予告で見せられて、やだ……気になる……。と観に行ってしまった人も多いと思います。

そして映画ファンからは「5回見た」「三時間が一瞬だった」「予告通りのものを何倍も見せられた」「無限にカレーとナンが出てくる」「できればポスターはネタバレだから観ないで行ってほしい」というコメントが寄せられています。

しかし中には「RRRは決して笑えるだけの映画ではないし、笑えるコメディアクションを予想していくと裏切られる。」「RRRは真面目な映画。インドの弾圧と差別を描いている。」「RRRの根底には監督の怒りを感じる。真面目にみるべき作品。」「それはそれとして火薬と筋肉と予告の映像全部倍盛である」というコメントがあります。

 

私も獰猛な野生動物と共に飛び出す主人公ビームのワンシーンを観て「ちょっと観てみよう。」と行ってきました。

きっとあんまり深く考えないで観れるんだろうなとわくわくしながら観に行ったんです。

期待に胸を膨らませて、アバターとワカンダフォーエバーの予告を観終わると映画が始まります。

イギリス植民地時代のインドのとある村。美しい声で歌う少女は英国人の貴婦人の腕にペイントを描いて歓迎しています。

女の子は笑顔で歌っているのに、周りの大人の表情がめちゃくちゃ硬い。

そう、RRRの事前公開されたストーリーは攫われた少女を一人の男が救いに行くという始まりでした。

嫌な予感がしていると、鹿狩を終えてきた夫人の夫が葉巻をスパスパ吸っていて「こいつ悪い奴だ」と子供でも分かる雰囲気を放っています。

英国人の部下が二枚の銅貨を放り投げます。

英語がわからない村の人たちは「女の子の歌声を気に入ってチップをくれたのだろう。」と恐る恐る察し、怯えている女の子の母親に「奥様がマッリの歌声を気に入ってくれたんだ。」と察した年長者が言います。

怯えた母親は「ありがとうございます。」と怯えながらもお礼を言って受け取った瞬間、貴婦人が美声の少女、マッリを連れていきます。

「は? 」と観客も村人も唖然とし、「英国人が銅貨二枚で女の子を買った」と気づいた瞬間、母親は泣きながら車を追い、身を挺して車の前にすがって娘を返してというのです。

こんなに唐突に、花でも折る様に子供が連れていかれるのか。あまりのあっけなさに観客は凍り付きます。

軍人が母親を撃ち殺そうとしたとき、英国人の偉そうなおっさんが「弾がもったいない。」と言い放ち、軍人はその辺に落ちていた木で母親の頭を殴りつけるのです。

車の中で泣き叫ぶ少女の目に映る、血まみれで倒れた母。

筋肉の爽快アクションを期待して来た観客に浴びせられる煮えた油のようなインド人差別。

「アクションを見に来た皆、この映画は差別を描いているんだ。」

監督がサムズアップしながらウィンクしている顔がよぎった方もいたかもしれません。

観客たちのIQが上がり、肝が冷えたところで主人公の一人、ラーマが登場します。

ラーマは警察官。暴徒と化した群衆が攻め寄せる金網を直立不動で見ています。

怯えて引っ込む英国人上司の目の前で、投げつけられた石が部屋に入ってきます。投げつけた暴徒を指さし、「あいつ捕まえてこい」と言いますが、そこは襲い掛かってきそうな暴徒の海の中。

無茶ぶりに一人歩みだしたのはラーマ。バイオハザードのように群がってくる人間をちぎっては投げ骨を折りぶん投げ、石を投げた暴徒を上司の前に引き出すのです。

しかし満身創痍でやってのけたのに、昇進の発表では白人ばかりが選ばれます。

ラーマは英国側のようですが、同時にその階級の中でも差別を受ける側なのです。

再び差別の重い二文字を観客に残します。

 

そしてもう一人の主人公、ビームのターン。

ほぼ裸で狼を狩る主人公、そこへ虎が乱入。原始的な罠と知恵と筋肉で虎を捕獲するという「これ!観客が見たかったやつはこれ!」と思わせてくれます。

ビームは英国人に連れ去られたマッリを取り戻すために、デリーにやってきた村の守護者なのです。

しかし都会ではその正体を隠し、マッリを取り戻すための伝も人員もなく、怒りを押し殺して純朴で優しいインド人として、英国人に理不尽な理由で殴られます。

冒頭、アクションよりも差別の割合が多く、観客たちは真面目な気持ちでスクリーンを眺めます。

アクション映画よりも、差別と闘うシリアスな映画を観に来た気持ちに観客の気持ちがシフトしたときに、再び我々の心に襲い掛かる衝撃。

暴走して燃え盛る燃料を積んだ列車が川に落ち、重油で燃える川の中に一人の少年が取り残されます。

周りが諦める中、少年を助けようと立ち上がったビームに、橋の上から「一緒に助けよう!」と合図を送るのは、潜伏しているビームを追っていたラーマ。

二人は互いが何者か知らず、力を合わせて少年を救うのです。

燃え盛る炎にロープ一本で救助をやり遂げた二人の男に熱い絆が芽生えないわけもなく、今までの暗い気持ちを吹き飛ばすほどの爽快なアクションが観客の心をつかみ、IQをガンガン下げます。

映画一本分くらいありそうなラーマとビームの日常をダイジェストで送り、兄貴とラーマを慕うビームと、本当の弟のようにビームに接するラーマの絆が描かれます。観客たちが二人の主人公をすっかり好きになった時に、ついにその日は訪れます。

二人は互いの正体を知ってしまうのです。

誘拐された村の仲間を助けに来たビーム。

昇進のために英国に楯突く反乱分子を掴まえなければならないラーマ。

二人の絆に亀裂が入り、ついにはラーマに捕らえられてしまうビーム。

どうしてラーマは昇進しなければならなかったのか。

そのストーリーもまた重く、そしてラーマの決意と信念の固さが語られます。

果たしてビームはマッリを助け出すことができるのか。ラーマの過去とは。そして二人の絆の行く末は。

3時間という膀胱が心配になる拘束時間を忘れてしまうほどの圧倒的な展開、そして目を離せない映像の数々。冒頭の重苦しさを吹き飛ばす爽快な結末。アクションに興味がない方も飽きさせないRRRをぜひとも劇場で観ていただきたいです。

 

以下ネタバレ

 

RRRは怒りと差別の映画です。

そしてそれはインドだけでなく、世界において行われている差別を表しています。

ビームが英国人のパーティー会場で「ダンスも踊れないのか」と英国人に馬鹿にされ、笑われた時、真っ先に不快感をあらわにするのが黒人の演奏者。彼は「こんな光景をみるのはうんざりだ。」と表情で表します。

しかし、落ちたシルバーのトレーを持ってきたラーマがドラムで叩きだした瞬間、彼の顔に笑顔が戻ります。

あざ笑う英国人の間をぬって現れたラーマがビームの手を取り、一緒にナトゥを踊りだします。

馬鹿にする英国人男性に対して、英国人女性たちが「いいかげんにして」と彼らをはねのけ、ラーマとビームに「さぁ続けて」と促す一連のシーンは、差別される側が段々立ち上がっていく胸熱くなるシーンです。

差別に対してNOという強い意志。

それを鬱陶しくなく、堅苦しくなく、差別も弾圧も私たちはあきらめないし立ち向かうというメッセージを感じます。

そしてストーリーも単純明快ですっと受け入れることができます。

攫われてきた少女を助ける主人公と、どうしても権力を手に入れなくてはいけない重い過去をもつ主人公が出会う、二人の絆と戦いの日々。

三時間を飽きさせないほど、主人公二人はとても魅力あります。

戦士ビーム。彼はインド人の中には伝説として知られる「村人を守る守護者」です。村から攫われた一人を絶対に助けるために、どこにでもやってくる存在。

ビームは登場シーンでその強さを表しながら、都会では優しく純朴な労働者としてふるまいます。彼はマッリを連れ去った貴婦人の姪ジェニーと出会い、マッリという名前を聞いて何とか彼女に協力してほしいと思うのですが、英語がわからないためうまく伝わりません。しかしジェニーに暴力や恐喝という手段は使わず、どうか助けてほしいという気持ちと、少なからず彼女に対しての好意をもって接します。

しかしラーマと共に戦うために立ち上がった彼の目には、敵に対して微塵の容赦もなく、戦士としての怒りと信念があります。

そんな二面性がビームの魅力として際立ちます。

警察官ラーマ。

彼は津波のように押し寄せる群衆に対し、周りの同僚や上司がおびえる中、すっと背筋を正し、一歩も引きません。それどころか暴徒となった群衆の中に飛び込み、その中から一人を引っ立て連れてくるという「なにがそこまでさせるのか」とぞっとするほどの強さを見せます。

しかし、自分を兄と慕ってくるビームの前では屈託のない笑顔を見せます。ビームが英語がわからないけれども英国人の女性に惹かれていると知ると協力し、身だしなみを整え、ダンスも踊れないと馬鹿にされた時は一緒にナトゥを踊り、そのダンスを馬鹿にしていた英国人も巻き込んでダンスバトルとなるシーンは圧巻。

ラーマは強く鋼のような警察官と、ビームを導いてくれる兄としての顔を持っています。

ラーマの過去は、この映画が戦う映画だと強く印象付けます。

ラーマの父は、英国に立ち向かうための兵士を育てていました。

ラーマ自身も幼い頃から兵士として戦う闘志を燃やしていました。そんな彼に幼馴染の少女シータは寄り添っていました。

ラーマの父と村に足りなかったのは武器。ラーマの父は村の中から警察官として潜入する者を選抜し、権力を手に入れ銃を村にもたらす計画を立てていたのです。

ある日幼いラーマの銃の才能を見出し、息子に全てを託して村人を守るために英国人との戦いで命を落とします。

英国軍人に母と幼い弟を殺され、村のために殉じた父を目の当たりにした幼いラーマの心に、強い決意と信念が芽生えます。

彼の心には常に、シータの存在がありました。

村人全員に銃を持たせると約束し旅立ったラーマを、シータは四年間も便りがなくとも思い続け、無事帰ってきてくれるようにと待っているのです。

ラーマの信念の源、それは故郷に置いてきた愛しい人と、村人との約束だったのです。

RRRは三時間の中に何本もの映画を詰め込んだような構成がくどくなく、作りこまれています。

健気なシータはラーマとの約束を胸に待ち続けていましたが、ある日手紙が届きます。

ラーマからの手紙には、親友を助けるために英国を裏切って、処刑されるはずだった親友と彼が助けに来た少女を一緒に逃がしたこと。悔いはなかったと。

そして英国からは、ラーマの処刑がきまったのでその遺体を引き取りにくるようにと。

絶望と悲しみを胸に抱えやってきたシータは、警官に追われている様子の一団を目にします。

そして彼らを追ってやってきた英国人の警官に「天然痘の人がいるのです。助けてください。」と嘘をつき、追い払います。

天然痘におびえた警官に蹴り飛ばされたシータに、警官に追われていた一人が駆け寄り、お礼を言います。

その男こそ、ラーマに命を救われ、マッリと共に逃げ出したビームでした。

ラーマからの「困った人がいたら助けよう」という意志を引き継いだシータ。その意思が巡って再びビームを助け、ビームはラーマを助けるために筋肉を駆使した救出作戦に出るのです。

要所要所に重い差別をはさみながら、それでも爽快感を抱くことができるのは「最後に必ず勝つのはこの二人だ。」と信頼できるからでしょう。

そしてそれを「ご都合主義」と思うのではなく、二人の魅力が観客に「この二人にどうか最高のエンディングを用意してください!!!」という気持ちにさせること。そして、「この邪悪な英国人夫婦を血祭りにあげてくれ!!」という血を求める衝動が自然と芽生え始めてくるからでしょう。

そもそも邪悪な貴婦人が「絵もうまいし歌声も気に入ったから連れて帰ろう」と銅貨二枚ぽいしてマッリを攫わなければディズ〇ーランドみたいな屋敷が燃えることもあんな最期を遂げることもなかったでしょう。

いえ、それはそれで昇進したラーマが武器を村に送り、もう何年か後にはなりますが同じ末路をたどったかもしれませんが。

観て損はなく、落ち着いたころにはインドの背景を深く考えされられる、筋肉と火薬とダンスと歌が織りなす映画「RRR」。

夏から急に寒くなり、精神と体調が不調を起こしやすいこの季節にぜひとも観ていただきたいパワフルな映画でございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

可愛さと不穏さと眠気との戦い「LAMB/ラム」

先に言います。

この映画は犬がとても可愛いのですが犬好きの方にはおすすめできません。

羊好きの方は予告を観て観賞を決めてください。

 

不穏な予告と公式ツイッターが出す可愛いアダちゃんの画像に「これはいったいどんな映画なんだ」と不安を抱かせる映画、「LAMB/ラム」が公開されました。

海外勢や試写会に参加した人の感想がすでに公開され「寝る。」というコメントもちらほらありました。

この不況の時代に2000円近い観賞料金を払って寝る者などいないだろうと、私も公開日に観てきました。

両サイドの方が開始十分で寝息を立て始めました。

彼らのために弁明させてください。

冒頭十分ほど、まーあのどかなアイスランドの素晴らしい山と自然の音と、会話はないけれど互いに愛情を持っているのを感じる、夫婦の何気ない日常が流れるのです。

夫は羊の世話をし、妻はトラクターのような農具で畑に向かい、可愛らしい愛犬がしっぽをパタパタ振ってついて回り、毛ヅヤの良い愛猫が窓辺に佇む。

寝る。

これは寝る。

最初こそ、なにか不穏なものが羊たちのいる畜舎にやってきたのを思わせるのですが、それ以後ほぼ会話のない夫婦の日常を見せられるのです。

私は幸い羊が好きなので、両サイドの寝息というBGMを聞きながらもどこか不穏なこの映画を見守ります。

そして異変がやってきます。

愛犬の鳴き声に夫婦は臨月の羊の元へ行きます。

産気づいた羊に、いつものように産婆をする夫婦。

そして生まれたなにか。

予告をさんざん見てきた側からすれば「彼女だ」と察しますが、ここまででまだ観客が見えるのは子羊の顔だけなのです。

何も前知識がなければ、妻がとち狂って子羊をなぜか自宅で育て始めたように見えます。

愛し気に抱き上げ哺乳瓶で子羊にミルクを与える妻を見た夫は、一人トラックで泣くのです。

子羊を産んだ母羊は、自分の子羊がいないことを夫婦に訴えるように鳴きます。助演賞ものの演技です。

しかし二人は無視します。

夫はしまい込んでいたベビーベッドを引っ張り出し、子羊はベビーベッドで眠ります。

ここでやっと、シルエットで「羊の頭をした赤ん坊」であることが観客にも伝わります。

こういった物語の場合、どっちかは「いや、これおかしい。」とパートナーを制する方向になりますが、この夫婦は羊の頭をした赤ん坊を我が子のように慈しみだすのです。

母羊は許しません。

ベビーベッドのある部屋の外まできて、何かを訴えるように鳴きます。

妻は母羊を追い払いますが、窓の向こうにいる赤ん坊も何かを察しているようです。

母羊は自分の子供が奪われてしまうと察し、赤ん坊を連れてどこかへ行こうとしますが、人間の夫婦に見つかってしまい、子供は取り返されてしまいます。

この時、この赤ん坊の身体がほとんど人間のように体毛におおわれておらず、それこそ頭と右手以外は人間であることがわかります。

これはとても微妙です。

ほぼ8割は人間。

でも2割くらいは羊。

羊のお母さんに任せてちゃんと育つのか。この子にとってどっちの親が幸せなのかと考え込んでしまいます。

アダと名付けられた羊の女の子は、妻にはもう自分の子供と同じでした。

だから妻は母羊を敵とみなし、撃ち殺してしまいました。

観ているこっちは不穏さでもう涙目。

そしてすくすく育っていくアダちゃんの可愛いこと。

二足歩行でとことこ歩き、まつげの長いつぶらな目で見つめ、長い耳をぴこぴこ動かし、ピンク色の鼻をふすふすと鳴らす彼女の姿はもうそういうキャラクターのように観客がすんなり受け止めてしまいます。

夫の弟が訪れ「いやいやいやいや、なにこれ。こんなの子供みたいに育てたらだめだろ。」と兄を説得しようとしますが、そのあまりにも可愛らしい様子に姪っ子として受け入れてしまう状態。

もっと不気味でクリーチャー的な造形だったら、観客も「なんだこの夫婦。」という正気でいられたのに、アダちゃんはとても可愛く、おとなしく、お行儀が良いのです。

服を着せるのに嫌がるそぶりをみせたり、食事をひっくり返して牧草をむさぼる姿を見せてくれたりすれば、「やはりこの子は人間ではないのだ。」と思えるものの、夫の弟に雑草を差し出され、おそるおそるかじっているところを「アダちゃんめっ! ぺっしなさい!!」と養父抱えられて「やぁん。」と泣きながらも激しく暴れたりしないのです。

羊よりも人間の子供のしぐさに近くて、段々と「この子は人間として暮らした方が幸せなのでは。」と思ってしまうのです。

しかし物語は徐々に不穏さを帯びていきます。

アダちゃんは自分の顔を鏡で見て「自分はパパとママとは違う。」と気づいているような困惑しているような雰囲気をしています。

そしてR15的に愛し合う夫婦を見て、観客は思うのです。

「この夫婦に子供が生まれたらアダちゃんはどうなってしまうのか。」

アダちゃんはこの夫婦のそばにいていいのかと思い始めたとき、物語は驚愕のクライマックスを迎えます。

その終わり方に誰もが驚愕。

観たことがない人にはぜひともパンフレットを買う前に観てほしいです。

 

この物語の結末は「因果応報」ともいわれますが、アダちゃん視点でみればこの物語は理不尽に親に振り回される子供の物語なのではないかと思います。

本当の親のもとで育つことが彼女にとって幸せだったのか。

アダちゃんは人間の夫婦に大切に育てられているように見えました。

彼女は傷ついた養父に寄り添ったり、心配しているようなそぶりを見せたのです。

物語の中盤まで、「この親の元で育つのが彼女にとって幸せだったのか」と不穏を感じていたのですが、いざ本当の親が彼女を連れていこうとすると、それが正しいことなのかと気持ちが揺れ動くのです。

勝手に人として育てられていたけど、その生活は快適に見えていたため、今度は過酷な環境のなかで生きなければならないのかと。

そんな暗澹たる気持ちになったのですが、パンフレットに寄稿している漫画家の板垣先生の「意思の疎通がとれているのかわからない」という感想を読み、アダちゃんにとってこの生活が本当は幸せだったと思うのは、あくまで私の感想にすぎないのだな、と思いました。

本当は服を着るのは嫌だったのかもしれない。

本当は草を食べたかったのかもしれない。

アダちゃんにとって服を着ない生活の方が快適なのかもしれないし、本当の親はアダちゃんを養親以上に愛して育ててくれるかもしれない。

そして成長した彼女は、本来の仲間と共に過ごす生活のほうが安心して暮らせるのかもしれないと。

 

映画のエンドロール後はアダちゃんのこれからを思って泣いてしまったのですが、別の席の鑑賞者が「あれを出すのは反則でしょう!」と叫んでいるのを聞いて、周りに誰一人泣いておらず、なんだか異端者のような気分になりました。

 

 

以下結末のネタバレ

この映画は終始不穏です。

妻マリアと夫イングヴァルがセックスしているシーンをはさむことで、この二人にこれから新しい子供ができたらアダちゃんはどんな目に遭うのかという不穏さを与えます。

さらに、マリアを誘惑するイングヴァルの弟、ペートゥル(ロクデナシ)。

この二人もしかしてすでに不倫関係だったのか?それとも元カレと元カノだったのか?関係を清算したからマリアは兄の方と結婚したのか?

アダちゃんという大きな不穏があるのにさらに不穏をぶつけないでほしい。

マリアはペートゥルを強制的にバスに乗せて追い出し、アダちゃんはイングヴァルと一緒に魚が採れているか見に行きます。

クライマックスが近づいてきたのに一家に平穏が戻ってきました。

しかし、戻ってきたマリアを迎えるのは銃声。

え? イングヴァル銃なんか持ってた? と記憶をたどりますがそんなもの持っていませんでした。

アダちゃんはどうなったのか。不安を抱く観客たちが固唾をのむ中、スクリーンに登場したのは、銃を構えた全裸中年男性だったのです。

そして観てわかる、この全裸中年男性はアダちゃんの血縁(パンフレットでは明確に父と表記されていました)。

夫婦の家の周りにあった不穏な存在感はこの全裸中年男性だったのです。

今まで夫婦の不穏さにばかり気を取られていた観客たちは「そんなのがこの山に生息していたなんて卑怯だろ!!」と思ってしまったことでしょう。

しかしこの作品、人間側の名前も聖書の人物たちですし、アイスランドの民話モチーフがちょこちょこと……日本人にはそれを複線だと見抜くの難しくない??

とにもかくにも、全裸中年男性は家に侵入し、銃を奪ったのでしょう。羊の畜舎にも入り込んでアダちゃんのお母さんと愛し合って(マイルドな表現)いたのですから。

彼が銃の使い方を知っているのは、アダちゃんの実母をマリアが殺害したのを見ていたからでしょう。

アダちゃんは、撃たれて血を流すイングヴァルに寄り添いますが、実父に手を引かれて山へと連れていかれてしまいます。

この映画では何度もアダちゃんが手を引かれて歩いていくシーンが出てきますが、その中でも最も不穏で恐ろしく見えます。

その時イングヴァルがつかんでいたのがアダちゃんの右手。

今までずっと、人と同じ形をしていた左手を掴んでいたのに、最後に彼は蹄になっている右手を掴んだのです。それも長く続かず、アダちゃんは連れていかれます。

イングヴァルは赤ん坊のようにアダちゃんを可愛がるマリアを見て、一人泣きました。

そして娘の名前を呼びながら探す悪夢を見ていました。

この夫婦はマリアの過激さが際立ちますが、イングヴァルも同じようにアダちゃんを自分の子供にしようとしたのです。

身勝手な夫婦が自分たちがしたように、本当の親にやりかえされただけ、と思うには、アダちゃんがあまりにも無抵抗で、夫婦を受け入れているように見えてしまいました。

しかしそれはあくまで人間側の見方なのかもしれません。

アダちゃんの実母は明確に子供を奪われた憎しみを夫婦に対して抱いていたのですから。

全裸中年男性からしても、夫婦が気づかないうちに生まれてくれるか、見た瞬間に気味悪がって捨てるかもしれないと思っていたのが、家の中で大事に育てだしたので「ちょいちょいちょーい!!!」と焦ったことでしょう。

失ったものをもとめて、本来あるべきものをゆがめてしまった夫婦の物語と思うと、人間のエゴを考えさせられる映画でした。

本作を観賞する方は、心してかかってください。

可愛い犬がむごたらしい姿になってしまうことに気分が落ち込みます。

そしてなによりつらい睡魔が必ず襲ってきます。

 

 

 

 

 

 

IMAXになって帰ってきた「ロード・オブ・ザ・リング」

全てのファンタジーの基礎となったと言われるJRRトールキン作の長編小説「指輪物語」。

2001年、ピーター・ジャクソン監督は映像化不可能といわれた指輪物語を映画化しました。

全世界にファンがいる指輪物語。下手を打てばとんでもない大惨事になりかねますが、原作を知らない多くの人を中つ国に旅立たせるほど大ヒットしました。

ホビットどれがどれか分かんねぇよと言われたり、とにかく歩くシーンが多い、と言われたりしましたが、多くの人が絶賛しました。

ロード・オブ・ザ・リング」と邦画も下手にいじらずにそのままのタイトルで公開したこともあり、日本でも多くの洋画ファンが沼に飲まれて行きました。

私が初めてロード・オブ・ザ・リングを劇場で観た時、前知識を何も仕入れずに挑んだため大変な衝撃を受けて帰りました。

3部作って知らなかったから中途半端に終わってびっくりしたのです。

しかしその素晴らしさに続きが気になり原作を読みました。

私の人生が色々狂い始めた時でした。

 

話は戻り、ロード・オブ・ザ・リングはいろいろ衝撃的な映画でした。

原作は挫折する人が多いほどカタカナ名が多いのですが、ピーター監督はなるべく必要な情報を絞り、でもキャラクターを殺さず、むしろ受け入れやすいように少し改変を加えました。

魔法使いのガンダルフ。エルフのレゴラスドワーフギムリ。騎士のボロミア。謎多き旅人アラゴルン。指輪の担い手のフロド。そして彼のためについてきた三人の勇敢なホビット

目的は敵陣の真っただ中にある火山へ指輪を捨てに行くこと。

ホビットは基本的に畑を耕し、畜産を行い、一つの場所に定住します。食べることが何より好きで、朝ごはん、朝のおやつ、昼ご飯、昼のおやつ、夕ご飯、夜食と六食食べます。ホビットは基本的に旅に出ません。旅に出るホビットは変わり者として変人扱いを受けます。

ホビットのフロドがどうして過酷な旅に出かけることになったのか。

フロドの親類、ビルボが旅先から持ち帰った指輪が、世界を支配しようとするサウロンの指輪を偶然にも拾ってしまったからです。

本来なら指輪の力に飲まれてしまうところ、あまりに善良すぎたため指輪は長いことどこにあるかわからない状態でした。

ビルボは長い間隠してきましたが、蝕まれていたことには変わらず、彼は村を出てエルフに保護されることになります。

しかしついにサウロンにも気づかれ、フロドはガンダルフの導きにより指輪を葬る旅に出ることになるのです。

当時ハリー・ポッターと賢者の石が公開されてなにかと比較対象にされましたが、メガホンをとったのがピーター・ジャクソン監督でなければとんでもない敗退を迎えていたであろう本作。

それがIMAXになったとあれば、あの日の私なら劇場が限定すぎて観に行けないことに涙で枕を濡らしたでしょう。

でも今の私はネットで席を予約してわくわくしながら劇場にスキップで向かうだけです。

つきましたのは池袋にあるシネマサンシャインの最上階。景色がすでにサウロンに支配されつつある中つ国のような不穏な空模様ですが気にしてはいられません。

A3サイズの入場特典ポスターをもらって座席に付きます。

IMAXの音響がとても素晴らしいんですよという説明を受けてからこれまでのあらすじが流れ、ホビット村ののどかな光景と共に本編が始まります。

主人公のフロドはイライジャ・ウッドが演じています。

原作では齢50を超える中年ホビットですが、イライジャ・ウッドが演じると可愛いさと純粋さの中に、知性を感じる魅力的な主人公になります。

カメラワークとスタントをうまく活用して、俳優たちの背丈はそんなに変わらないのに「ホビットはですねぇ!小っちゃくて可愛いんですよぉ!!」としっかり説明してくれます。

記憶の何倍もフロドが小さくて可愛い。

サムも記憶の何倍も純朴で可愛い。

メリーは記憶よりもちょっとイケメン。

ピピンは記憶よりも愛嬌があってバ可愛い。

ガンダルフが記憶よりもホビットのこと好きな気持ちが隠しきれてない!

イアン・ホルムのビルボが思ったよりもマーティン・フリーマンのビルボそっくりだ……マーティンすげぇ!!

と二十年以上前の自分と答え合わせしながら眺めます。

追手からなんとか逃げ延びて警戒心に満ちたフロドたちは、ガンダルフに会うために酒場に行くのですが、そこで店の端にいる怪しげな男の視線に気づきます。

もうこの登場のし方だけで好きになります。

ガンダルフの代わりに待っていたのはガンダルフの友人、アラゴルン。この時彼は名前を明かさず、ストライダーという呼称だけがフロドたちに与えられた情報です。見てくれが怖いしうさんくさいしオーラも怖いし敵か味方かわからない。

演じるのはヴィゴ・モーテンセン。実は別に決まっていた俳優から急遽抜擢されたという逸話のある俳優ですが、「嘘でしょ……こんなに怪しさとうさん臭さと泥臭さの中に、慈愛と善良さをのぞかせる人が代役? 」と感じたものです。

ストライダーは追手に追われているのに二回目の朝食を食べようとするホビットに「ちょっと言ってる意味がわからない……。」と引きながらも、リンゴをくれたりします。優しい。

そしてなんやかんやあってエルフのお屋敷で人間、エルフ、ドワーフが集まって会議をするのですが、もうてんやわんや。戦争につかおうぜ! ふざけんなこんなもん廃棄一択だろ! エルフが仕切るな! と話がまとまりません。死にかけてやっと家に帰れると思っていたフロドは、僕が捨てに行きますと挙手をするわけです。

この時のフロドが本当に小さくて可哀そう。

サウロンの指輪はとても危険なものなのですが、ビルボやフロドがひょいっと持っているのでどの程度危ないものなのか……と思っているとガンダルフは一切指輪に触れていないことに気づきます。

ビルボが手放すことができず、床に落として言った指輪を触りもせず、気づいたフロドがひょいっと拾っても自分からは確認しようとしません。

指輪はそこにあるだけでどんどん周りの人をむしばんでいきます。

ガンダルフをモリアの坑道で失い、フロドの心はすり減ってぼろぼろですが、それでも旅は続きます。

指輪を手に入れればサウロンに匹敵するのではと言われているガラドリエル夫人が出てきます。

見た目は美しいし上品なのに、そこに漂うのは明らかに「得体のしれない」強者感。彼女に見つめられたボロミアは滝汗ですし、エルフ嫌いなギムリはその美しさに茫然としています。

フロドはワンチャン、ガラドリエル夫人がもらってくれないかなと指輪を差し出しますが、ガラドリエル夫人がめちゃくちゃ怖くなった後に「試練に打ち勝ちました……。」とすっきりした顔をしました。

彼女にとっては大事なことですが、勝手に試練にされてしまった上結局指輪をもらってくれなかった小さくて可哀そうなフロドはげっそりしながら旅を続けます。

IMAXでもカットされていましたが、ギムリガラドリエル夫人に御髪を一本いただけないかお願いしたら三本もらえたとウキウキしているシーンがあります。この失うものが多い旅で小さな幸せを見つけたギムリの貴重なシーンはDVDでぜひとも観てほしいです。

そして訪れる旅の仲間の最大の試練。

フロドは大きな決断をせまられます。

二十年経っても色あせない感動の一部ラスト。フロドは絶望の旅に向かい、アラゴルンたちは攫われたメリーとピピンを救うためにマラソンを始めます。

さて、この先はサブスクでもレンタルビデオでも観ることができますが、10月にIMAXで公開されます。

余裕と機会のある人は、あの素晴らしい光景を大きなIMAXで観ていただきたいです。

意外な彼がフロドたちの仲間に加わったり、新たな推しが見つかったりします。

唯一気を付けるのは己の膀胱の限界だけ。

私、劇場で通路側に座っていたんですが、今まで見たい映画の中で一番多くの人がトイレに席を立つのを見ました。

皆さん席選びにも気を付けてくださいね。