三十路からのデスマーチ

何気ない日常がもしかしたら誰かの役に立つかもしれない。

ゴジラVS戦後日本「ゴジラ-1.0」

シン・ゴジラという高い高いハードルに挑む山崎貴監督を心配する声が多かった「ゴジラ-1.0」

シンの次がまさかのマイナスワン。原点回帰としてオリジンやゼロをつけるシリーズは多いけども、それらを振り切りマイナスワン。

しかし作品はマイナスワンどころか歴代ゴジラを超えたという絶賛の評価をつけた人の多い名作です。

 

本作は1945年の日本から始まります。

主人公敷島は特攻隊隊員。飛行機が故障してしまったため急遽飛行機の整備工場のある島に着陸します。橘さんという整備士に「どこも壊れてないっぽいんですけど? 」と言われるも、他の整備士は日本の敗戦を察して、敷島を責める雰囲気はありません。

実際、飛行機の故障で戻ってきた特攻隊の方はいるのですが、彼らの中にはひどく責められたという話もあります。

敷島がやってきたその島には伝承がありました。

深海魚の打ちあがる日は、「ゴジラ」という怪物がやってくると。

案の定。その夜ゴジラが上陸してきました。しかしそのサイズはなんだか小ぶり。

ティラノサウルスを一回り大きくしたようなサイズです。

戦車でなら対抗できそうなサイズですが零戦だとちょっと厳しいサイズ。しかし人間なら命を失うレベル。

橘さんからゴジラを撃てと言われますが、敷島は恐怖のあまり撃つことができませんでした。

橘さんは行けると思ってますけど、観客は「いや無理だよ!」と感じたでしょう。撃ったところで怒ったゴジラに頭を噛まれて大海原に放り投げられるのが関の山ですよ。

からくもゴジラの襲撃から生き延びた敷島。這う這うの体で東京に帰ります。

しかし彼の家は空襲で焼け、家族も消息不明。お向かいに住んでいる安藤サクラさん演じる澄子さんに「なんでお前が生きて戻ってきたんだよ」と詰られる始末。

罪悪感いっぱいで戻ってきた敷島に未来はあるのか。暗澹たる気持ちを観客も味わっていたその時、本作のヒロイン浜辺美波さん演じる盗人に赤ちゃんを託されます。

じつはこの赤ちゃん、盗人もとい典子さんが縁もゆかりもない死にかけた母親から託された女の子でした。人の好さそうな敷島の家に上がり込んだ典子さんは、赤ちゃんのアキコちゃんと一緒にやっと安らかな眠りにつくのでした。

追い出すこともできず、翌朝澄子さんにエンカウントしてしまい、偽善者となじられる敷島。しかし、敷島の曇らせ要因かと思われた澄子さんは母乳がないと知るやいなや大事にとっていた白米を二人に渡します。大人は何食っても生きていけるんだから、これでアキコちゃんのために粉ミルクと交換してこい、という彼女のツンからはみ出た大きなデレ(愛)なのです。

澄子さんは三人子供を育てたと言います。彼女はこのとっておきの白米を、子供たちに食べさせてあげたかったのかもしれません。

しかし彼女は、憎しみすら抱いている特攻隊員の生き残りの家に身を寄せる赤ちゃんをほっておけなかったのです。ここで澄子さんからの曇らせは完全に終了し、後はこの家族を見守り支援してくれる優しいご近所さんポジになります。

さすが三丁目の夕日で日本中に感動を与えた監督。

ゴジラとかいいからこの人たちが戦後の動乱に巻き込まれつつもたくましく幸せに生きている姿を観たい、という気持ちになってしまったとき、敷島は仕事を見つけて帰ってきます。

米国がばらまいた魚雷除去の仕事。大金がもらえますが中々に危険です。

典子さんはそんな危険な仕事やめてくださいと言いますが、敷島は、この二人を養うということに生きがいを感じているのです。なんとか典子さんを説得して仕事に向かいます。

仕事は順調で同僚たちと和気あいあいと進み、親しくなった同僚たちを家に招き食事をするまでの仲になります。

そんな日常がある日突然壊れ、ゴジラとの再会が訪れるとは知らずに。

前半の戦後人間パートから打って変わって襲い掛かってくる災難に、最初のおどおどしていた表情が変わり、ゴジラという神にも等しい巨災に挑む敷島は「神殺し」を決意した主人公へと変貌します。

神木隆之介くんから神木隆之介さんに変わったような面構え。

一人の人間の顔つきをここまで変えてしまうほど、ゴジラとは恐ろしい厄災なのだとスクリーンの前で観客たちはぶるぶる震えます。

さて本作、カラーを抜いてマイナスカラーというモノクロ版も公開されました。

どっちから見たほうがいいのか。

観賞済の方は「モノクロの方が怖い」とのことです。

え……? カラーでもガンギマリで殺意を向けてくるのに?

真っ青になって隆起する背びれが恐ろしいほど絶望感を伴っているのに?

まだ恐怖の伸びしろがあるの?

個人の感想はさておき、マイナスカラーもとっても好評。

ゴジラ史上最もゴジラの顔面に近づき突っ込んでいくのがまさかの神木隆之介という日本画誇る、最古にして最高の怪獣映画。なるべく大きなスクリーンで恐怖を味わっていただくのがおすすめです。

 

 

 

 

 

ファンが公開を終わらせてくれない大ヒット作「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」

予想以上に人気が出てロングランする映画というのはあります。

インド映画で異例の大ヒットをし、なんやかんやで公開期間が延び、応援上映などで不死鳥のごとく復活する「RRR」が最たる例ですが、公式が思ったよりも人気が出すぎてなかなか上映終了しない映画があります。

特典が付けば満席になり、数々の映画が終了していく中客足が途絶えず上映を続ける映画。公式も予想ができなかった事態に「???」となっている作品。観終わった後、クリームソーダを喫したくなる人が爆増し、喫茶店でも寒い時期にあまり出ないクリームソーダの注文が増えてお店の人が「???」となった作品でもあります。

それが「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」

日本で妖怪というコンテンツをキッズにも楽しめるキャラクターものとして完成させたアニメ作品「ゲゲゲの鬼太郎」の最新シリーズです。

本作のアニメは原作のダークな雰囲気を子供向けにまろやかにした作風が大ヒットし、細かい設定や声優を変えつつ、サザエさん並みにご長寿アニメシリーズとして知られています。

ちなみに私は子供の頃、妖怪人間ベムゲゲゲの鬼太郎を夕方に観て、冬のピアノ教室帰りの真っ暗になった道が恐ろしく半泣きで帰ったことがあります。

そんな鬼太郎もアニメ六期が作られ、大きなお友達も「猫娘がやたらかわいくなってる」と驚愕させました。

そして満を持して大ヒットコンテンツが、原作者水木しげる生誕百年を記念して生み出したのが本作「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」です。

ポスター見ました?

血まみれの墓石がずらりとならんだ墓地に同じく血まみれの人物二人、そして一切血を浴びていない、おなじみ鬼太郎が佇む不気味なポスター。

映画学校の怪談シリーズもここまで赤くなかったよ?

血まみれのスーツの男「水木」は鬼太郎の原作、墓場鬼太郎では鬼太郎の養父にあたる人物です。

そして着流し姿の長身白髪は「かつての目玉の親父」。……目玉の親父!?

鬼太郎の作品で主人公と切り離すことができない、目玉の親父。鬼太郎の頭に乗って行動し、視聴者の解説役としておなじみの目玉の親父。登場からすでに目玉状態だった彼は、原作ではエジプトのミイラのような包帯ぐるぐる巻きのガタイのいい男の姿をしていましたが、アニメ開始時にはすでに目玉に手足のある状態。お茶碗でお風呂に入り、鬼太郎がいつも敬い大事にしている家族。

そんな目玉の親父が白髪長身着流し姿。しかもCV関俊彦。なんてこったい、日本のアニメ回で最もお風呂シーンを披露してきて何も言われなかった目玉の親父がかつてはこんな造形だったなんて。今後目玉の親父のお風呂シーンを観るときにはどんな気持ちでみればいいのか。

そう不安に駆られてしまう人もいるでしょう。

しかし、それはあくまで、あくまでも、この陰鬱な物語を少しでも受け入れやすくするためのビジュアルなのです。

「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」

公開からすぐさま某SNSでは「これはあかん。」「本物の因習村だ」「横溝正史に出てくる一族。」「子供に安易に見せたらトラウマになる。」「入村20回目」と阿鼻叫喚狂喜乱舞の大騒ぎ。

何が真実かわからない人狼ゲームが始まってしまった本作の原因は、龍賀一族という本作の現況でもあり因習村の原液の存在です。

この一族の物語で小説が書けるレベルで設定も練りこまれています。

中には「ツイッター(現X)を見て言ったから肩透かしをくらったwww」という人もいますがPG12でその期待はあまりにも重い。でも精神的にはPG15レベルのグロさです。

そんなグロい本作を、なんとか飲み込めるようにしているのは主人公、水木の巧みな人物造形にあります。

戦争帰りの野心家喫煙者でありながら、子供の前では煙草をもみ消し、鼻緒の撮れた草履のお嬢さんがいれば膝と肩を貸してあげてまっさらなハンカチを割いて草履をなおし、野心よりも己の善性のままに斧をふるうことのできる男。

なんだこの因習村は、と観客が青ざめる中、斧を振り下ろす水木の爽快なこと。

本作の結末はどこまでも救いはないのですが、それでも、希望を見出せるあたたかな結末に、すごい映画を観た、という満足感で劇場を後にすることができます。

しかし、SNSを見ると「あそこに〇〇が…。」とあり、え? 見逃した!!と劇場にUターンすることになるのです。

まだ来ていない人も勇気を出して入村しませんか?

空想と救いの物語「屋根裏のラジャー」

あけましておめでとうございます。

今年は清らかな気持ちで映画はじめをしたいと思い、「屋根裏のラジャー」を観てきました。

 

イマジナリーフレンド。

心理学、精神医学における現象名の一つで、子供にしか認知できないいわゆる「空想の友達」もそう呼ばれることがあります。

本作「屋根裏のラジャー」はアマンダという女の子が創造した空想のお友達、ラジャーが主人公です。

ラジャーは自分はいつか消えてしまう存在だと気づきます。

自分と同じように空想上の存在が近所にいたのですが、彼は空想の主が自分を認知できなくなり、消えかかっているのです。自分もアマンダに忘れられてしまうと、ああなるのかとぞっとするラジャー。そしてその日は突然やってくるのです。

本作は、二つの物語が同時に進行します。

一つは、心に空白を抱えたアマンダの、成長の物語。

もう一つは、イマジナリを手放すことができなかったミスター・バンティングの物語。

交通事故で病院に運ばれたアマンダ。自分が消えかかってしまったことにより、ラジャーはアマンダが亡くなったのだと思います。

消えかかったラジャーはジンザンといオッドアイの猫(CV山田孝之)に案内され、イマジナリたちの住む図書館へ連れていかれます。

そこで姉御肌のエミリに、子供たちが空想を必要としなくなり、消えるしかなかったイマジナリたちはこの図書館から空想の力を得て、生き延びていることを教えてもらいます。

この図書館にはイマジナリの住処だけでなく、仕事もあります。

出張という形で子供たちの空想世界で働き、そこから食料を調達して戻ります。

中には呼ばれた子供の専用イマジナリとなり、図書館に帰らず子供のそばに居続けるイマジナリもいます。

イマジナリは子供たちと自分たちはいつかは別れる運命だと知っています。

しかし、中にはそれを拒むものもいます。それがミスター・バンティング。

自分のイマジナリだった女の子との別れを認められず、彼が選んだのは他者のイマジナリを食らい、彼女が消えないようにすること。

そうして執着し続けたイマジナリは青白く冷たく、腐臭の漂う女の子になってしまったのです。

バンディングはラジャーが素晴らしいイマジナリであること、そしてラジャーは、アマンダの深い悲しみから生まれたことを明かします。

自分の存在が消えないとアマンダの悲しみは消えないのかと苦悩するラジャーでしたが、彼はアマンダが必要としたから生まれた存在。アマンダが自分を忘れてしまっても、彼女との再会を選び安全なイマジナリの街から飛び出します。

 

本作のイマジナリは、子供の空想というキラキラしたファンタジックな世界で生きているように見えますが、ラジャーを生み出したアマンダは、ラジャー自身も知らない深く、大きな悲しみを抱えていました。大きなぽっかりと開いた胸の空洞を埋めるために、ラジャーは存在していました。

ラジャーが認知できなくなることは、アマンダにとっては傷が癒えていく、悲しみが薄れていくことの現れなのでしょう。

同時にアマンダはラジャーに救われたという証明なのです。

 

さて、イマジナリというか空想とは子供だけを救ってくれるものなのか。(現X)を見て成人していても救われている人がいると気づきました。

まぁ、それはイマジナリというよりも「推し」なんですがね。

しかしこれがなかなか馬鹿にできないもので、心の支えとして十分な力を発揮します。

ですが、イマジナリと同じように、誤った執着をすると腐敗し身を滅ぼします。

用法容量を守って適切な関係を保ちたいものです。

 

 

 

以下ネタバレ含む感想。

 

私は動物に弱いので、本作でアマンダのお母さんリジーのイマジナリ、冷蔵庫が出てきたときには号泣しました。

ジーをへびから守ってくれた大きなふわふわの犬、冷蔵庫。

彼はリジーの幸せを願い、イマジナリの街で暮らしています。

この冷蔵庫、イマジナリの街にはいますが、子供たちの空想に出張している様子がありません。

それはまるで、他の子の専属イマジナリになり、リジーの作った自分が消えてしまうのを恐れているようです。

彼はリジーとの思い出を抱き続けたいのかもしれないと思い、また号泣しました。

また、リジーも愛猫に「オーブン」という名前を付けていた様子からして、冷蔵庫のことを完全に忘れているわけではないようです。アマンダにせがまれラジャーのためのココアを用意してくれるところは、ただめんどくさいからそうしようというだけには思えないのです。

対してバンディング。

彼が自分のイマジナリに用意したのはグラスの水。

自分は抹茶カフェラテを飲んでいるのに対し、お冷です。

もしかしたら彼のイマジナリは冷たい水しか飲まないという込み入った設定があるのかもしれないのですが、最期に抱きしめられた時に彼女だと気づかなかったところからしてお前はもう何がしたかったんだよ!!!とこぶしを握ってしまいました。

執着し続けたバンディングの女の子は屍みたいなのに、冷蔵庫はお爺ちゃんですが温かくふわふわした毛並みなのを見ていると、これがお前の望みなのかよ!!!!と憤りを感じます。

イマジナリが見えなくなってしまっても、忘れてしまっても、それが自分の一部だったことは間違いないのだと思わせてくれる本作。子供よりも大人の方がほろっときてしまうかもしれません。

 

美しいのは死か生か「死が美しいなんて誰が言った」

一人で作ったアニメ映画「アラーニェの虫籠」が一時期話題になりましたが、この冬、画像生成AIとモーションキャプチャー技術、ゲームエンジンとして有名なUnityを使用することで少人数で完成させた作品「死が美しいなんて誰が言った」が公開されました。

完成したのです。

出来栄えは置いておいて完成したのです。

世の中には素晴らしいアニメ作品がたくさんありますが、ともかく少人数で作成することに成功したのです賛否両論あれど、完成したのです。

夏休みの自由研究に、塩の結晶を持って行く子もいれば、牛乳パックで作った貯金箱を持って行く子もいます。期日までに完成させることに意義があるのです。

予告を観て「わぁ。PS2時代のCGみたぁい」と思いましたが本編も割とPS2でした。

中には「これは、バグ? 」というような謎の空間もありましたが、ともかく完成しました。キーアイテムになる家族写真が「全然似てないじゃん!他人じゃん!」と思えてもとにかく完成しました。

大きなスクリーンだからこそ、目立つ粗。

しかし映像の粗そのものはゾンビ映画だからか、終始暗い画面ではそんなに気にならなかったりします。

主人公骨折してない? と思うシーンもありますが、主人公はゾンビになりかけという設定を最大限活用します。

そして、セリフで説明させることにより、尺を稼いだりします。

いじめにあっていたこと、両親の仲が良かったこと、全部セリフで説明します。

ワンカット、同級生にいじめられているシーンをはさんだり、家族のシーンを入れるだけじゃん!というのは素人の浅知恵です。少人数で作っているのですから。セリフで賄えるところはセリフで賄うのです。

しかし声を吹き込んだ方々の演技力が素晴らしい。

最初は「気持ちはわかるけど好きになれない」と思っていたキャラクター一人一人に、好きかどうかは置いてなんだか魅力を感じたりします。

主人公:詩人のレイ君。本作が12話のアニメとかじゃなくて良かったと心から思えるほど、口だけで行動しない、ずっとうじうじしている主人公。ゾンビに食われたり殴る蹴るの暴行を受けたりする。そんな彼が最後は…

ヒロイン1:主人公の妹のユウナちゃん。冒頭からもう精神が限界状態の女の子。塀の向こうに天国を見出しているけれどどう見たってあっちも地獄。元々素質があったのか、きっとお兄ちゃんとは違う世界が見えている。

ヒロイン2:リカ先生。二人を見守るキャラぶれぶれのセクシー女医。怪しい裏取引をしていたり、何故か使い慣れた銃を持っている。たぶんすでに何人か撃ってる。主要人物の中で唯一衣装差分がある。映画を紹介するサイトによっては重要なネタバレをされていたりする。

ヒロイン3:主人公に最後まで付き合ってくれる密航業者のタキシバさん。主人公を殴る蹴るしてきますが、生きることに後ろ向きな主要キャラの中で唯一生きることに全力を注ぐ関西人。やってることは汚いけど一番きれいな生き生きとした表情をしている。

 

この四人がネームド主要人物なのですが誰に対しても「気持ちはわかるが好感度は低いし死んでも悲しくない」という印象を与えます。

ゾンビ映画では重要です。死んでも悲しくなキャラクター。人が死ぬたびに泣いていたら涙でスクリーンが見れませんから。

とにかく全員が好き勝手に行動しているので、誰も他人を思いやる気持ちがゼロ。

それが死の淵に立ち、もう終わりだと悟ったときに、あふれ出すのです。生きている間に被っていた、理性や恐怖や憎悪や後悔がどろどろと溶けて中身が出てくるのです。

登場の時には一切なかった、キャラクターの魂の叫びが、表面が削がれてあふれ出すのです。

死は美しくなんかないし、好き勝手に生きようとする登場人物たちは決して美しく見えない。しかし、終わりを悟った時の最後の姿が美しく見えるのです。

私はリカ先生のあのシーンを観た瞬間、映画のチケット代の元は取れたと感じました。

がしかし。同時期に公開される映画が、ゲゲゲの謎、窓際のトットちゃん、そしてディズニー100周年のウィッシュ。そこに並べるというのはあまりにも酷い。

予告を観て、制作会社の配信動画を見て、それでも観ようと思った人にはきっと楽しんでいただける本作。クリエイターを目指す人には、少人数でアニメを作るという過酷さを学べる本作。楽しませてもらうつもりではなく、何かを学び取ろうとする姿勢が大事な映画です。

ちなみに、役者さんとテーマ曲が挿入されるタイミングが100点満点です。

 

 

 

見る世代にとって感想の変わる「窓際のトットちゃん」

令和の後半はシスに始まり、ゴジラ-1.0やゲゲゲの謎等、戦後を描いた作品が大人気になりました。

そんな中満を持して公開された「窓際のトットちゃん」は黒柳徹子さんの幼少の頃の体験を描かれた本が原作となっています。

映画で描かれるのは戦前の時代、トットちゃんがトモエ学園にやってきて疎開するまでの間。

本作、SNSでは「予想外に戦争の描き方がえげつない」と高評価を得てトレンド入りし、多くの人から絶賛されています。

戦争という知識の乏しい子供時代に見れば、トットちゃんの身の回りの変化は「戦争時代だから。」と思う程度です。

何故なら、本編の悲しい出来事は戦争によって引き起こされたものではありません。

それだけに、本作は「戦争」を描いた作品の中では最も恐ろしい描かれ方をしているかもしれません。

主人公トットちゃんはあまりにも落ち着きがないため、学校側の要請で転校させられるという始まりをします。困り顔のママは好奇心旺盛な娘の自主性を尊重したいと思いつつも、社会性を身に着けさせるためには学校に行かせなければいけません。幸い、トットちゃんが良い子だと理解してくれた校長先生に受け入れられ、新しい学校がきまりました。友達もでき、毎日ご機嫌で学校に通います。
トットちゃんのおうち黒柳家はとても裕福なおうちで、朝食にも色鮮やかなサラダが並び、お父さんはコーヒー豆を朝から挽いて、お母さんはトットちゃんのために桜でんぶを使った色鮮やかなお弁当を用意してくれます。家具や料理、そして愛犬のシェパードから戦前の日本人の暮らしはこんなにも豊かだったのかと伝わってきます。
しかし、トットちゃんの日常がじわじわ変わっていきます。
劇的にではありません。春から夏に代わるように、戦争という時代が豊かさを徐々に奪っていくことが世界観として盛り込まれて行きます。

お小遣いでキャラメルを買っていたのに、キャラメルがなくなり買えなくなり、色あざやかだったトットちゃんのお弁当が梅干一個から豆に変わっていきます。そしてトットちゃんがいつも頭に乗せていたリボンがなくなり、みんなカラフルな色の服を着ていたのに、国民服に変わっていくのです。

本作、日常は戦争に侵食されて行くのに、トットちゃんにとっての悲劇が戦争によって起こされることが明確に描かれるのは最後に学校が燃えるシーンくらいです。

 

作中でお祭りに行ったトットちゃんが親にねだりひよこを買ってもらいますが、ひよこは数日後に死んでしまいます。

トットちゃんは手の中でぴよぴよと鳴いていたふわふわのヒヨコが、動かず鳴きもせず静かにしているのを見つめて悲しみます。

そんなトットちゃんへ、友達の山本君は「ひよこはトットちゃんに会えて幸せだったよ。」と励まします。

さて、時は流れ、トットちゃんの家からあるものが消えます。

愛犬のロッキーです。

転校した時、トットちゃんが首に定期を下げてあげたロッキー。

トットちゃんの友達であり、ひよこが亡くなった時無言で彼女を慰めていたロッキー。

お友達とケンカした時も、トットちゃんを慰めようと必死になっていたロッキー。

無人のロッキーの小屋には、ロッキーのぼろぼろになった首輪が置かれています。

あまりにも突然いなくなったので、ロッキーはどうなったのか、映画だけではわかりません。

トットちゃんは戦争なんか嫌だ、とは劇中では言いません。日常として受け入れているのです。お腹が空いても疎開で友達と離れ離れになっても、素敵なおうちが壊されても。
コロナ前と劇的に生活が変わったのに、それを受け入れた日本のように。
戦争もこんな風に日常を変えていくのかと、気が滅入ります。

そんなわけで大人になればなるほど、描かれていないものの存在が気になりつらくなる本作。不穏な世界情勢の今こそ観ることで自分の価値観が変わるかもしれません。

 

手を出した相手がヤバかった系「シス 不死身の男」

盲目の退役軍人の家に強盗に入った、引退したテロ暗殺部隊がボディーガードをしていた娘を誘拐した、凄腕の殺し屋だった男の愛犬を殺した等々、映画には

「手を出したらあかん奴に手を出したため報復に遭う」というジャンルがあります。

フィンランドで制作された映画「シス 不死身の男」もその一つ。

 


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本作は愛馬と愛犬を連れて孤独に金を彫るアアタミ・コルピという老兵の物語です。彼は寡黙で映画の結末まで言葉を発しません。

戦争で家族を失った彼は、ややぶかぶかの薬指をつけています。かつては彼の指にぴったりだったのでしょう。やがて金塊を見つけ、換金するために町へ向かいます。

久しぶりのお出かけに嬉しそうな愛犬と共に行くと、不穏な一段とすれ違います。

そう、ナチスです。

時は1944年。ナチスの中でも上のほうにいる兵士はドイツは負けることを察して、どうやって処刑を免れ逃げ延びるか考えているときです。

略奪した財産と食料、そして拉致した女性を交渉材料にああでもないこうでもないと頭を悩ませていると、目の前にやってきたみすぼらしい老人はなんと金塊を袋いっぱいにもっているんです。

そりゃもうヤるっきゃないとウェーイと調子に乗るわけです。

しかしコルピさんは一般フィンランド人ではなく、家族を殺された復讐鬼と化し、上官の命令も無視して一人暗殺部隊と呼ばれ、不死身という二つ名までつけられ、フィンランドでは形容しがたい不屈の精神SISUの代名詞にされ、軍も制御不能に陥ったため、自由におなりと野に放たれたフィンランド兵。

返り討ちにされるわけです。

七人殺されたところで状況を上に報告したところ、七人で済んだなら運がいい方だよ。ロシア兵300人殺した凄腕だよ。ほっといて早く帰っておいでと言われるわけです。

ここで金塊をあきらめて帰っていれば、もしかしたら、もう少し寿命が延びたかもしれないのに、金塊に目がくらんだナチス一団はコルピさんを追いかけるわけです。

ナチス軍団VS不死身の二つ名を持つ一人暗殺部隊の戦いがフィンランドで繰り広げられるわけです。

本作、ストーリーはとても分かりやすいのですが、見どころが満載で2時間弱しかないにも関わらず満ちたりた気持ちで「戦争は良くないなぁ!」とさわやかに劇場を後にできます。

ほとんど武器もなくナチス相手に自分の耐久力で挑まなければならないコルピさんですが、そんな彼の相手をするナチスもまぁまぁ気の毒なのです。

コルピさんが地雷原にいるため、ナチスは自分たちが埋めた地雷を避けて金塊を取りに行かねばならず、そうなると使われるのが下っ端です。

行って来いと上官に言われて、そろそろっと進めば、コルピさんが投げた地雷が上から飛んできます。

ナチスも頭を使って、捕まえてきた女性たちに地雷原を歩かせますが、身も心もぼろぼろになった彼女たちの足取りはあまりに重く、コルピさんはその間にさっさと逃げてしまいます。

やっと追いついたナチス兵が犬を放てば、コルピさんはガソリンをかぶり匂いを消し、見つかれば自らに火をつけて火だるまになり犬がひるんだすきに川に逃げおおせます。

不死身も息くらいするだろうと、少し浮かんだ瞬間に狙撃し、若い兵に回収に行かせますが、むろんコルピさんが死んでいるはずもなく、水中で喉を割かれて人間酸素ボンベにされるわけです。

真っ赤に染まった水面を見つめる若い兵隊の涙目。爽快です。

コルピさん自身は無敵ではありません。ケガをし、息が上がります。

爆弾で吹き飛ばされて意識も失います。

金塊を奪われ、心折れ欠けますが、目の前に操縦士付きの飛行機があれば追いかけて奪い返しに行きます。

何故そこまで金塊にこだわるのか。語られることはありません。

私たちに解るのは、コルピさんは家族を失い、寡黙で、折れない心を持っていること。そして愛犬をとても大切にしていることです。

戦争から離れて静かに菩提を弔いたかったのでしょう。しかしコルピさんは暴力に愛されているかの如く、災難に巻き込まれてしまったのです。

さて、ホラー映画の怪物のように恐ろしいコルピさんを相手に、なんとか金塊を奪ったナチスでしたが、不思議なことに行く先は墜落した飛行機でふさがれています。操縦士の首には自分たちがコルピさんに巻いたはずの縄があるのです。

そして拉致した女性たちがくすくすと笑うのです。

お前たちはもう死ぬと。すべてを奪われた彼は止まらないと。

不死身の一人暗殺部隊に手を出したナチスの末路は、ぜひとも劇場で確かめてほしいです。

 

本作、公式が「犬は無事です」と犬無事予告も作るほど、犬の無事を伝えてきます。馬は爆死させたのに!!

しかしそれも納得、愛犬ウッコ君はコルピさんの愛犬でもあり、中の人こと主演のヨルマさんの愛犬なのです。いくらフィクションと言えども愛犬を殺していいはずがないのです。

本作でもナチスに見つかり撫でられてしっぽを振ってしまうという人懐っこさを発揮し、撮影中もナチス兵の皆さんにしっぽを振って近づいてしまいリテイクを出してしまったこともあるほど。きっと撮影中もいっぱい撫でてもらっていたんだろうなとほんわかします。

犬が無事な爽快バイオレンス映画を観たいなと思った人におすすめの本作です。


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ヒトコワ&オカルトの嫌な映画「白石晃士の決して送ってこないで下さい」

邦画ホラー監督といえば知らぬ人のいない白石晃士監督。監督の元にはぜひ見てほしいと恐ろしい映像があの手この手で届きます。そんな映像の一つを見せちゃいますというコンセプトの本作「白石晃士の決して送ってこないで下さい」は、ヒトコワ要素とオカルト要素で観客を嫌な気持ちにさせる映画でした。

 


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私は運よく舞台挨拶付きの上映会に参加することができました。

10月14日に渋谷と池袋の二か所でしかない舞台挨拶。

私は邦画ホラーを劇場でみたことがほとんどなく、怖くて途中で逃げ出したくなるかもしれないと思い迷いながら座席販売サイトに行けば前列を中心に埋まりつつあり、迷っている場合じゃない!と勢いで購入しました。

結論から申し上げますと、怖いものが苦手な私はがっつり怖かったです。

オカルトとヒトコワ要素で良い意味で充実したホラー映画体験でした。

ただ、ホラー慣れしている人からしたら「CG荒くない? 」「そんながっつり映ってたらむしろ笑える」と感じるところもあるため、邦画ホラーを勇気出してみようと思っている人には良い塩梅の映画でした。

 

さて、本編開始早々に白石監督がスクリーンに映り、舞台挨拶は欠席してすみませんという謝罪から始まります。そんな、監督も忙しいでしょうから……と思っていると「この映画を観て嫌な気持ちになってくれると嬉しいです!」と元気よくアピールしてくれました。

つまり、私たちはこれから、嫌な気持ちにさせられるのです。

これは悪手。「今から皆さんには嫌な気持ちになってもらいます」と言われたことでこれから嫌なものを見せられるんだなという心構え、準備ができます。大したダメージは負わないでしょう。

等と思っていた私はあまりに無知でした。

その言葉はむしろ、監督からの「覚悟は良いか。」というブチャラティのごとく死刑宣告。

嫌な気持ちになりました。

嫌すぎて、後どれくらい観なきゃいけないんだろうと、上映中嫌な気持ちになりました。

そして同時にオカルト的恐怖もばっちり味わいました。

特に冒頭の廃墟のシーンは登場人物が訪れた時は明るかったのですが、怪異が起きる頃から陽が傾き、登場人物が恐怖のどん底に落とされるときは真っ暗で、時間の経過すら計算された恐怖演出が素晴らしかったです。

 

本作で語られる白石監督に届いた映像、それは若いカップルが廃墟に探検に行くという映像でした。

明るい彼氏の圭介と、気弱な彼女のユキ。冒頭の二人の様子はピクニックにきた、いわゆる文科系のほんわかカップルに観えました。

しかし廃墟にたどり着いてすぐにそれが一変します。

圭介の問いかけに対してうまく応えられず「ごめんなさい。」「許してください。」とユキが口にするたびに、不穏な空気をかき消そうと明るくふるまう圭介。

カメラに映っていないところでの二人の関係を察することができます。

圭介の言葉遣いは柔らかいのに、廃墟に置かれたロープウェイの中にユキを突き飛ばして、その中を撮影するよう指示するところは真綿で占めるような嫌な気持ちになります。

そしてふざけた圭介が隠れて、ユキが困っている姿を撮影しようとした時、ユキは姿を消すのです。ユキを探し、何とか見つけて再会を果たすも、泣いて支離滅裂なことを言うユキに段々圭介は苛立ち、彼女を怒鳴りつけ始めます。

その時、廃墟から真っ黒な何かがにじみだし、二人を恐怖に陥れるのです。

主人公の圭介とユキは、一見仲が良くどこにでもいるカップルなのに、実際は圭介によるDVや束縛にユキが苦しんでいるとういうのを雰囲気で伝えてきます。

圭介は明るく穏やかな青年に見えるのですが、周りの語る彼は女性を下にみていてふざけ半分で頭をはたき、服で隠れる場所を痣になるほどつねるという質の悪いDVを行っていました。

廃墟探検以後、ユキには何かが取りついたのか、それとも彼女の中の鬱憤が解放されたのか、圭介に詰め寄るシーンがあります。圭介とユキの立場が逆転したように攻め立てられしどろもどろな圭介に、嫌な気持ちになります。

こんなふうに本作はさまざまな角度から観客を嫌な気持ちにさせます。

そしてもちろん、恐怖も感じさせてくれます。

廃墟からユキが持って帰った「ビデオテープ」これがまた最悪の特級嫌悪呪物なのです。

圭介とユキがビデオを観ているシーンに、わずかに聞こえるビデオの音声、そして二人の顔から人が殺される映像なのではと、いわゆるスナッフビデオではないかと察することができます。

白石監督はそれをこれからお見せしますと言います。

いやいやいやいや見せないで。絶対嫌な気持ちになるじゃないか。

と思っていても無慈悲に流れる映像。

白石監督作品の多くに登場している清瀬やえこさん演じる女性が山の中で廃墟を撮影しています。のどかな光景、楽し気な女性の声、趣のある廃屋。そこに油断していると沖田遊戯さん演じる登山に来たらしい男性が乱入してきます。

もうそれだけで嫌な予感がし心の中で警報が鳴り響きます。

男性は女性のカメラをさりげなく手にし、良い廃墟があると案内します。

そのカメラの動きがもう気持ち悪い。女性は露出のない、厚手の登山服なのに、彼女の身体を舐めまわすような動きで身体が映るのです。

ただ女性というだけで、彼女は標的にされたのです。

この手口が本当に気持ち悪い。人気のない山奥で、自分の言う通りにしないとカメラを返さないというのです。ぎこちない笑顔が無表情に変わっていき怯えた、恐怖に満ちた様子が本当に嫌な気持ちになって、なんかもう怪異が起きてこの男をどうにかしてくれと思わずにはいられないのです。

性犯罪に遭われた人がこの映像を観たら、トラウマが蘇るような映像。

直接的な暴力はほとんどないのですが、「言葉」「雰囲気」で被害者が味わう恐怖や苦痛がじわじわと観客にも伝わってきて、すごく嫌な気持ちになります。

ヒトコワ要素が強すぎて、怪異が起きるとむしろほっとするような本作ですが、結末を見るとふと疑問に思うのです。

圭介の暴力は彼本来のものなのか。

圭介は自分の行為を反省し、大切な人を傷つけないようにしているけれど、もしかして何かが彼にそうさせるように仕向けていたのではないか。

そんな嫌な想像が浮かぶのです。

 

私は事前に監督に前置きされたにも関わらず、きっちり嫌な思いをさせられました。

本作で私がきっちり嫌な思いをさせられてしまったのは、演者さんたちの演技が素晴らしかったというのも大きな理由です。

ユキを演じる有川舞衣子さんは、気の弱い可愛らしい女の子がとても自然で、それだけに廃墟以後の高圧的なユキとの温度差にびっくりするほどでした。舞台あいさつで、攻めているときはとても楽しく、圭介に指示されているときは「あ?」と感じていたということがわかり、そんな心理状態であんなに気の弱そうな女の子を演じていたのだと二重に驚きました。

圭介を演じるかいばしらさんは、映画レビューをよく観ていたので「そのまんまかいばしらさんだ」と思っていたのですが、いなくなったユキを泣きながら探すシーンが素晴らしく、こんな演技をなさるのかと見入っていました。

暴力をふるうのも事実だけど、圭介にとってユキは大切な人で、彼女がいなくなったら必死に探すという矛盾しながらもリアルさを感じるキャラクターでした。また演者としての姿を見せてほしいと思いました。

ビデオの女性の清瀬やえこさんはとにかくリアルで、本当のスナッフビデオを見せられているのではと、そんなわけはないのにとても不安になりました。舞台挨拶で彼女が「ガンガン攻めてください」と共演者に伝えていたことがわからなければトラウマになってしまうほど、演技がリアルでした。

沖田遊戯さんのビデオの強〇魔は本当に気持ち悪く、手口も姑息でじわじわと女性に恐怖を与えていくところにとても嫌な気持ちにさせられました。舞台挨拶で苦労したあんなことやこんなことを話していただけて本当に良かった…当分引きずるレベルで嫌な犯罪者の演技がお見事でした。

そして今回ヒトコワとオカルトの恐怖要素を担っていた小倉綾乃さん演じるカラメは行動も存在も謎で、なぜ彼女が白石監督の前に現れたのか、彼女は後ろ暗いところのあるもののところに姿を現すのではないかと思わせる、都市伝説のような摩訶不思議な存在でした。

小倉綾乃さんの独特の雰囲気と、「黒い家」の大竹しのぶさんが演じた幸子のように、ふわふわとしている口調に不気味さのある独特の存在感があり、舞台挨拶で映画そのままの姿で登場した時は少しぞっとしました。

また、白石監督のインタビューに答える、圭介が出禁になったバーのマスターや圭介の元恋人役の揺楽瑠香さんも短いながら自然な演技で、よりリアルさの増す雰囲気が最高でした。

上映館が少ないのがとてももったいない。行ける距離と観ることのできる時間の確保できた方にはぜひとも観て、嫌な気持ちを分かち合ってほしいと思いました。

最後に、この映画のとても残念な点。

パンフレットがないんですよ……。

特に舞台挨拶で有川舞衣子さんの「自分の普段の行いを見返していただければ」と清瀬やえこさんの「どんな服装をしていても(性犯罪の)被害者になりうる」という大事なメッセージ性はぜひとも残してほしいと思いました。

ただ恐ろしい、ただ嫌な気持ちになった、というだけではなく、同等に考えさせられる映画でした。

 

以下本作のネタバレ含めた舞台挨拶の感想。

かいばしらさん、沖田遊戯さんもカラメ役の小倉綾乃さんと同じ、作中の服装で登場したので「うわぁ~本物だぁぁぁ!」とテンションが激しく上がりました。

かいばしらさんは圭介そのままの穏やかな語り口で、実は飼っているテグ―(ネズミのようなかわいい動物)を虐待するシーンを監督が想定していたのですが、それは勘弁してくださいということになり、人を殺した(自殺ではあるが間接的に殺害したともいえる)ことにしてもらった、というエピソードが語られていて、本作の和気あいあいとした雰囲気を感じることができました。

かつてゾンビーバーの感想で「動物が死ぬなら観れないという人はいるけど、その死にざまは素晴らしかったし、犬も良いジャーキーを出演料で食べてるかもしれない」とおっしゃっていましたが、自分の愛テグーとなれば、フィクションでも厳しいのだと人柄を感じました。

また気持ち悪いほど恐ろしい犯罪者を演じた沖田遊戯さんは傾斜だったため頭に血が上り大変だったこと、スタッフが用意してくれたマイ〇ロディーの枕で支えていたけれど血の気が失せてしまい、皆に心配された。というトラウマ回避の良エピソードを語ってくれました。

家族が観に行くと楽しみにしているし親戚のも小学生も見に行くらしいのでもう実家に帰れないかもしれないと気にしていたところに、白石作品で殺したり殺されたりしている清瀬やえこさんが、自分の家族もよく観に来て楽しんでくれたから大丈夫とフォローをされていて、ホラー映画に出演する方のプライベート事情を垣間見ることができました。

 

ちなみに本作、最後の白石監督へのカップルからの近況報告にぞっとする演出がほどこされているのですが、個人的には「ユキは大好きな圭介に暴力を振るわれることなく一生そばに居続けられるし、圭介は自分の気持ちを抑え込まなくても暴力をふるうことができない身体になったので、ユキに暴力を振るわずそばにいられるのでハッピーエンドでは? 」とストゼロをあおって思いました。

 

結論、舞台挨拶は行けそうなら行った方がいい。他に残らない一期一会のコメントが聞ける。