三十路からのデスマーチ

何気ない日常がもしかしたら誰かの役に立つかもしれない。

一人で観たくないホラー映画「女優霊」

今週のお題「映画の夏」

 

夏の風物詩、怖い映画。

最近では怨霊からマスコットにクラスチェンジした貞子さんと伽耶子さん、俊夫君親子のガチンコ映画が話題になりましたが、原点回帰して二人の映画を観た時に、彼女たちがこうした存在になる流れには海外の人気ホラーキャラクターとの類似性を感じました。

十三日の金曜日で有名なジェイソン・ボーヒーズ氏やエルム街の悪夢で斬新なファッションでおシャレ番長になったフレディ・クルーガー氏のように、がつんと画面に出てきて力技で命を奪う、パワータイプの存在なのです。

彼女らには日本的な湿気、こびりつくようなねっとり絡みつく恐怖はなく、明確な殺意と存在感を感じるようになりました。

 

私は、「呪怨」のゾンビのようなその演出を見た時、反撃ができそうな存在だと思いました。

実際なすすべもなく殺されていく人たちに、怯えず反撃すればなんとかなるのでは? と感じてしまいました。

また続編のパンデミックを見た時も、何故家に入っていない海外の人々にまで影響が出ているのか、そこまでの力があればとっくに日本が無くなっていそうなのに、という何とも言えない納得できない感が残りました。

家に入ってきた者を容赦なく殺す、というルールがあるはずなのに最終的にやりたい放題。その一貫性のない呪いは恐怖ではなくむちゃくちゃな物語の破たんを表していました。

 

見たくないという嫌悪感と、恐怖は別の感情です。

日本の古き良き恐怖は、京極夏彦の絵本「いるの いないの」のようなその存在をちらつかせながらも見せず、最後にぬうっと出て来るようなものだと言います。

 

そんな日本の恐怖映画を思い浮かべると、私は一つの作品が必ず過ります。

 

「女優霊」

 デビュー作に意欲を燃やす監督と、その撮影陣に襲い掛かる不可解な現象。呪われた過去作の存在。キャッチコピーは「それは けっして みてはならないもの」

1996年に中田秀夫監督の作り上げた作品です。

この作品は、血がほとんど流れません。

恐怖は輪郭をもって描かれません。それらは、ここにいると囁くのにはっきりと触れてきません。

私は女優霊を観終った後に、部屋の隙間や物影、目に見えない隙間が怖いと感じました。

そこに何かが隠れてこちらをみていると感じてしまうのです。

一人でいれば、突然やってきたそれにどこかに引きずりこまれてしまうのかもしれないと。

女優霊の恐怖は、情報があまりにありませんでした。

何故、いつから、どうしてそこにいるのか。どういった理由で生者を襲うのか一切分かりません。

けれどその作品を完成させようとするにつれ、それは近づき災いをもたらすのです。

 

最後に観終った後、とにかく誰かそばにいてほしいという気持ちになる作品です。

 つまり、恐怖というのは人の頭の中で作り出すのが一番恐ろしいので、あまりオープンに見せない方が良いというわけですね。