三十路からのデスマーチ

何気ない日常がもしかしたら誰かの役に立つかもしれない。

クリーチャーより零戦が怖い「シャドウ・イン・クラウド」

初めてシャドウ・イン・クラウドの予告を見た時に「おお!またつよつよ女子が怪物をぶん殴る系のアクションか!!?」と期待したものです。

ツイッターでは早速見た人たちから

「シナリオがいまいち。」

「クロエ観たい人だけみたらええ。」

「シナリオがいまいち……。」

となかなかの辛口が並んでいます。文句を言っていいのは観た人だけです。

だから私も言います。

 

ストーリー

第二次世界大戦下、何故の箱を抱えた主人公、ギャレット大尉は極秘任務を受け爆撃機に乗り込む。それは想像を絶する恐怖の始まりだった。

 

本作、当時世界中の飛行機乗りを震撼させた架空の怪物「グレムリン」と主人公の戦いのように予告はされています。

しかしグレムリンよりも恐ろしいものとギャレット大尉は戦わなくてはならなかったのです。

 

主人公モード・ギャレットは戦中の空を200回以上飛び続けた飛行機の整備もできる凄腕パイロットなのですが、彼女が乗り込んだ爆撃機は男だらけのセクハラモラハラざんまいの最悪の爆撃機でした。

突然やってきた美女を彼らはある意味で歓迎しますが狭い爆撃機の底にある銃座に押し込め、彼女に対する卑猥な暴言を吐きまくり。整備不良なのか本当にグレムリンが壊したのか、銃座から出られなくなったギャレット大尉を「どうせ女が何もしてないとか言って勝手にいじって壊したんだろう」と、彼女の報告を無視し、敵機の存在を認めようともしません。

壊れかけた銃座でグレムリンを目撃したギャレット大尉は、クソみたいな男たちに追い詰められつつ、爆撃機をちょこちょこ壊していくグレムリンと、さらには襲ってくる敵の戦闘機とも戦わなくてはいけなくなるのです。

 

 

以下若干のネタバレ

ギャレット大尉はどんな極秘任務をえているのか。彼女が「絶対開けるな」と言って渡した箱には何が入っていたのか。

それがわかるのが本作の転換期です。

それまではずっと、観客はギャレット大尉と一緒に爆撃機の乗組員からの差別を受け続けなくてはいけません。

彼らの姿は一切見えず(低予算なんだろうなぁ)声だけが通信機からずっと聞こえてきます。

彼女を攻め立て侮蔑する声は聴いているだけで奥歯の歯茎が痛み続けるような嫌な気持ちになります。

ギャレット大尉が軍に入った理由は、夫のDVから逃れるためでした。

しかしそこでも、同じ国を守るはずの軍人から女であるだけで報告もまともにとりあってもらえないのです。

 

私はこの映画を観る前に、ガンパウダー・ミルクシェイクという「こまけぇことはいいんだよ!男なんざ銃で撃ったら死ぬんだからよ!!」という武装した女性たちが男たちを物言わぬ肉片に変える映画を観ていたので、しおしおの顔で座席に座っていました。

あれ、予告でグレムリンをクロエがぶん殴ってたはずなんだけどな……という不安な気持ち。

このひたすらギャレット大尉を侮蔑する男たちという展開の尺が思ったより長くて「無理」という人はいたのではないかと思います。

確かにつらかった。

確かに長かった。

きしょくわるいクリーチャーは襲ってくるし、零戦から箱を守らなくてはいけません。

そう、こんな南にいるはずのないやばい戦闘機、零戦がくるのです。

この戦闘機、めちゃくちゃ怖い。どんどん乗組員を殺していくのです。ギャレット大尉も間一髪、箱を取り戻し爆撃機の中に戻ってくるのです。そこにはグレムリンがいるのですがそんなことより零戦です。とっとと追っ払って零戦を撃墜させなければ箱の中身も自分たちの命も木っ端みじんです。

まったくどこの国がこんなおっかない戦闘機を作ったのか。

この一夜の戦いは、ギャレット大尉に何をもたらすのか。彼女は極秘任務を達成することができるのか。

 

本作は緩急のつけ方がちょっと失敗したかなというところと、あ、予算あんまりないんだな、というのを感じさせてくれる作品です。また、ちょっとそれは無理があるのでは……と感じてしまう設定があります。

でも見たい画はきちんと見せてくれます。

さらに音楽が90年代のB級映画をレンタルした時によく聞いた音楽を模倣しているため、30代以上は「あ、なんか懐かしい……。」という気持ちにさせてくれます。

この作品は、人を選ぶ作品ではあります。

個人的には、予告で見たグレムリン素手で殴るシーンと、零戦がおっかないところで映画代の元はとれたと思いました。

予告の映像が観たいと感じた人の期待は決して裏切りません。

ぜひ公開している最寄りの劇場へ行ってみてください。


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現在の語り部の集う場所

幼い頃、戦争体験談を語り部の人に聞くという項目が修学旅行に組み込まれていました。

当時、戦後から時間が経つにつれ、徐々に語り部の人は少なくなっていくのが問題視されていました。

生きた人の声を、多くの人に届けることの重要性。それが消えていくことの問題。

しかし現在、デジタルタトゥーという言葉があるほど、一度放流されたものがその人の死後も延々と残るのかもしれないという現象があります。

そう、ネットの世界なら。

 

その当時私は被災地から遠い場所に住んでいました。

その夜はテレビはずっと真っ赤になった東北の沿岸部を画面の端に出し、真っ暗な中焼ける東北の街を表示していました。

翌日、ラジオでは行方不明者の名前を抑揚のない声で延々読み上げ、私の身の回りは何事もないような日常生活を送っているのに、流れてくる情報はただ事ではない様子でした。

被災地から遠い場所に住んでいた私には、その当時東にいた人たちの体験談というのは、興味本位や好奇心で聞いてはいけないような、ふざけ半分に聞いてはいけないような話でした。

 

そんな私の意識を変える、被災された方のエピソードを聞くことがありました。

その方の住居は津波の被害に遭い、当時その家にご家族といて避難が遅れてしまい、自衛隊の救助を待つ間そこで過ごすことになったという、生還者のエピソードでした。


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2021年にVtuverの木風公子さんが配信に参加させた被災地ジョーさん。その存在感と不謹慎な装いから出てくる重いけれどどこか明るいエピソードは、まるで三谷幸喜監督の映画でも見ているような、明るさと笑い、そして人の温かさを感じました。

 

テレビで取り扱っても十分はえるエピソードですが、彼の体験談を聞くことができるのは、YOUTUBUのこのチャンネルだけでした。

 

かつては特別な知識人のためだけの世界だったインターネット。

それが個人でも気軽に情報の配信者になれたからこそ、聞くことができた体験談。

いつ、どこで、誰が巻き込まれるかわからない災害だからこそ、その気持ちが「話してもいいかもしれない」と思ったときに、そっと語れる場所がこの匿名の世界なのではないのかと感じました。

日本最後の秘宝館

それはかつて日本の温泉地に存在した、「愛」と「性」をテーマにした大人の博物館と言われています。

男女の営みを再現した蝋人形や春画、映像が飾られている場所です。

高校生の頃、人形の特集を組んだ雑誌を見た時に、その存在を知りました。

知ってしまいました。

私はその時に、秘宝館に置かれた人魚の蝋人形が気になり、実物を見てみたいなと思たのでございます。

しかしご存知の通り秘宝館は軒並み廃館。

現在残っているのは熱海の秘宝館のみです。

もうあの日見た雑誌の蝋人形は観ることができません。

しかし、熱海にある秘宝館にも人魚の人形があるとのこと。

休みが取れた私は今しかないと思い行ってきたわけでございます。

 

熱海駅からバスで数分、ロープウェイに乗り、さらに階段を登ってついた秘宝館入り口。に、子連れの、家族旅行者が、いました。

乳〇丸出しの人魚の蝋人形の前で。

まだ秘宝館の入り口もくぐっていません。

オッフ…と思いましたが、家族連れ、お子さんのほうは人魚の人形をさして気にする様子もなく、立ち去られたため、私はロープウェイですでに買ったチケットを見せて入ったわけでございます。

春画に始まり、避妊具や性玩具の展示、局部丸出しの蝋人形もあります。

ツイッターを少し前ににぎわせたポル〇ハ〇のように、無料でモザイクなしの動画が簡単に見ることができる昨今、あえてこれを見に来る意味はなんなのか。

日本の文化を知るという知的好奇心なくしてはできません。

それかドンキでアダルトグッズを冷やかしに来るカップルのような遊び心がないとできません。

 

実際、秘宝館に置かれているものはどれも昭和の匂いを感じる悪く言えば古臭い、よく言えばレトロ感のある、どこか懐かしさを感じるものなのです。

ピンク映画のポスターが好きな方や、田舎の道路のちょっとしたスペースにある中の見えない自動販売機にわくわく感を抱く方には、郷愁を抱く不思議な空間です。

私は古い旅館のような絨毯の上を歩きながら、どこかノスタルジックな気持ちになっていました。

そして最後には、驚くべきことにオ〇エント工業の美しいラブドールがいました。

その時私は、このラブドールをいい感じに並べた方がよっぽど血の巡りがよくなるのでは……と思いましたが、ここはきっとそういう場所ではないのです。

 

大人のあなたはぜひとも行ってみてはいかがでしょうか。

熱海秘宝館は小高い山にあるため、秘宝館を見終わった後にとても美しい熱海の街を一望できまう。

もちろん、秘宝館に行かずに熱海の街を一望するのもおおすすめです。

 

人間じゃないからヨシ!バイオレンス映画「DAHUFA 守護者と謎の豆人間」 

中国のアニメがすごいと、昨年から話題のアニメ業界。

中国ではアニメは子供向けという位置づけのため、性的、暴力的な作品はきびしく規制されているといいます。

そんな中国から本来であれば「ありえない」ほどの暴力描写を背負ってやってきたのが「DAHUFA 守護者と謎の豆人間」です。


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子供のトラウマどころか、繊細な大人もトラウマになるレベル。

鬼滅の刃を残酷だと言っていた保護者が泡吹くレベル。

体液が赤くないし人間じゃないからOK!で済ませたらダメなレベル。

つまり、大変魅力的なバイオレンス映画になっています。

 

ストーリーは、中国の山奥に家出した皇太子を探して、真っ赤な羽織を頭からすっぽり覆ったダフファさんがやってきます。

彼は外見は子供のようなのですが、戦闘能力、判断力、貫録、とすべて完ストしています。日本では赤ずきんちゃんと呼んでしまいそうになりますが、皇太子は彼のことを字幕では「ダルマ」と呼んでいます。

たしかに、真っ赤で手足を隠してころころとしている姿はダルマにも見えます。後々のストーリーでも、彼が決して倒れない。倒されても瞬時に起き上がる強さの持ち主であることが表現され、日本的な達磨のイメージにも合致します。

ダフファさん。実は国が認める王族の護衛のような存在で、おそらく100年以上は王家に仕えているようです。

皇太子に対する態度も慇懃無礼です。

ため息交じりに皇太子を探して山に入り、人っ子一人いない辺鄙な山奥、のはずが、整備された道に辿りついたダフファさん。皇太子の持っていた装飾品を持った謎の人物に出会います。

日本で言うこけしのような頭をし、言葉を一切話さず、絵でかいたような顔をした、没個性的な人たちの集落。

彼らは傷付けられると、緑色の体液を血のようにまき散らして、人間のように絶命します。

しかし人間ではないようです。

彼らの体には謎の湿疹(のちにキノコと判明)が生える奇病があり、その湿疹が生えた者を容赦なく処刑しています。

果たしてダフファさんはこの謎の集落から皇太子と共に帰ることができるのか!

 

以下ネタバレを含めた感想。

よく、予告詐欺やポスターと違った、邦題がクッソダサイという映画がありますが、「DAHUFA 守護者と謎の豆人間」は本当に予告に偽りなく守護者と謎の豆人間でした。

主人公ダフファさんはドラゴンボールの初期主人公のように、見た目は子供ですがえげつない戦闘能力の持ち主。最初彼の攻撃で豆人間が粉砕され、身体をバラバラにされていたので「豆人間は人間よりも身体がもろいのかな」と思っていたのですが、そんなことなく人間の身体に向かって撃ってはいけないものでした。

中国版のポスターでは、彼が杖を猟銃のように巧みに操り豆人間を打ち砕くかっこいいデザインのものがあります。

戦闘漫画などでよく見る、謎の光る玉を飛ばして相手を粉砕するダフファさんですが、弱点があります。

愛用の鉄製の杖でないと、無限に使えないのです。

他の鉄製の棒では、数回撃つと棒の方が破壊されます。

一見無敵のようなダフファさんは、杖がないとほぼ小さい人間のように非力になり、豆人間の銃に対抗できません。パワーバランスがうまくとれています。

 

この作品のもう一人の主人公とも言えなくないのが、ダフファさんが探している皇太子。

彼は女官を描きたい(おそらく裸婦画を描きたい)のに禁止され、じゃあなんかいい感じの山を描くと、山奥に家出します。

皇太子は人が傷つくのを見るのも苦手で、暴力的なこともできません。

自分には皇帝は無理だと言います。

いっけん無責任な髭のツンデレヒロイン枠に見えますが、彼は「人間ではない」と虐げられる豆人間の一人、ジャンを助けます。恩返しに食料を持ってきた彼に、他の豆人間と見間違えるから、とリボンを結んであげたり、装飾をプレゼントしたりと、友情をはぐくんでいきます。

実はこの豆人間、人間によって作られた存在でした。

成長すると頭の中に結晶ができ、それを使って人を操ることができるようになるとかそういったアイテムを作るために「人間のふり」をして生活させられているようなのです。

豆人間は自分たちがどうして作られたのか知りません。

何のために存在しているのか知りません。

しかし、中には自分の存在を考え、探そうとする者が現れます。

ジャンもその一人でした。

豆人間たちはそれを取り出すために、容赦なく撃ち殺され、身体を破壊され、死体が山のように積みあがっていきます。

「DAHUFA 守護者と謎の豆人間」は、要所要所に政治的なメッセージを感じます。

しかしそれが押しつけがましくなく、中華風ウェスタン活劇として成立しています。

おそらく、画風と豆人間のおかげでしょう。

豆人間のおかげで、バイオレンスかつホラー描写もグロ描写もスルーして日本にやってきたのです。

しかし「うーん。」とほとんどの劇場は熟考の結果、うちじゃ上映できないという結論をだしたためか、ごくわずかな劇場でしか見ることができません。

なぜ。

刺さる人多そうなのに。

いやでも羅小黒戦記みたいなヒットは期待できないし。

と私も感じました。

もしも予告を見て気になる方がいらっしゃれば、ぜひとも観ていただきたいです。

日本でも最近見ないくらいのバイオレンス描写のオンパレードに持ってきたポップコーンを口に運ぶことを忘れてしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

匿名性の醜悪さを詰め込んだ「竜とそばかすの姫」

細田守監督が美女と野獣を作ってみたかんじのポスターが公開されたかと思えば、本当にディズニーのキャラデザの方が担当していたという作品、「竜とそばかすの姫」。

一目見た時からディズニープリンセスみたいだなと思っていただけに納得しました。

 

 

「竜とそばかすの姫」は一人の少女の成長の物語です。

幼い頃、親のiPh〇ne(ボタンに四角マーク付き)で母と共に作曲していた主人公が、母の死をきっかけに歌うことができなくなりました。成長した主人公は、スクールカースト上位者を羨ましく思いながらも、理解ある友人と一緒にそこそこ楽しく学校生活を送っていました。

そんな彼女が、匿名の世界Uでは思いっきり歌うことができるのです。

現実世界ではカラオケで歌うことを強要され、逃げ出し嘔吐(この嘔吐描写も容赦ない)していた少女が、解放され、のびのびと歌うことができたのです。

それで何が変わるわけでもないと思っていたら、一日でフォロワー数が高速で増えだし、半分批評、半分賞賛、アレンジしてみた動画も量産されて一躍スター。

友達と共にライブを開催することになり、多くのファンに囲まれて歌っていると突然乱入者がやってくるのです。

それがUの世界では乱暴者として有名な竜

ラップバトルが始まるわけでもなく、ライブは中止。しかし主人公はその乱入者のことが気になり、彼の正体を探すために行動を始めます。

 

※以下ネタバレあり感想※

 

竜とそばかすの姫は、心に傷を負い、閉じこもっていた少女、鈴が自分の殻を壊して走り出す物語です。

鈴の世界には、ネットの悪意が常に付きまとっています。

赤の他人の子供を助けるために、水難事故で亡くなった母を、「無鉄砲」「救急隊を待っていればよかったのに」「偽善者」と罵る声が、鈴の心の傷を一層広げました。

鈴が初めてUで歌ったときも、受け入れる声だけでなく、「そばかすまみれの変な顔」「目立ちたがり屋」「素人」と批判し、Uの世界で暴れる竜に対しても誹謗中傷が集まり、竜の正体探しを始め、竜を擁護する層を馬鹿にする声もありました。

さらに学校でも、鈴が学校で人気の男子と話していたことで、学校のグループラインが炎上したりと、仮想現実の世界が素晴らしいと言いながらその逆の展開や演出が目立ちます。

竜とそばかすの姫では、サマーウォーズと違って、ネットの世界の人たちは主人公を助けてくれないのです。

申し訳程度に応援してくれるだけで、竜を探す手がかりも鈴と鈴の周りの頼れる仲間たちが見つけて、鈴は彼らの助けを借りて竜を助けるために現実世界で泥にまみれて走り出すのです。

 

この作品では、ネットの世界、匿名であることの無責任さがこれでもかと描かれています。

面白半分に批判し、大多数の流れが変わればくるりと手のひらを返し、現実世界では何の助けにもならない。

本当に助けてくれるのは、現実の本人の築き上げた信頼関係だけ。

細田監督は、Uという世界を予告ではmillennium paradeの曲に乗せて「現実世界ではやりなおせなくてもUではやりなおせます」「Uは貴方の才能を最大限に引き出します」と魅力的に語っているのに、本編ではそこに集まる人たちの醜さ、浅はかさをこれでもかと描いているのです。

この映画から受け取った監督からのメッセージは「ネットの世界はクソ。ネットの世界は信頼できない。だから本当に助けたい人がいるときは匿名性をかなぐり捨てて現実世界で行動しろ。」でした。

匿名の人たちに傷付けられた鈴が、自分も匿名になることでトラウマを払拭することができたのに、助けたい人を助けるためにはそれを捨てなくてはいけない。

名前も知らない子供を助けるために飛び出した母と同じように、鈴は自分を解放できた世界を壊して、飛び出しました。

映画のラストを見て、最初は「何も解決していないのに良かったねという雰囲気だけ流れている」と感じました。

しかし、本当にそうなのか、と時間が経つにつれ感じました。

誰も助けてくれない、と諦めていたのに、自分の姿を50億人に晒して、居場所も知らないのに駆けつけてくれた。

たった一人の女の子の力なんて一度暴力から守るだけしかできなくても、諦めていた側から見れば、駆けつけてくれただけでどれほど救いになるか。

出来ればもう少し先の展開も見せて欲しいけれど、これは一人の女の子が自分の殻を壊すための物語なので、それは綺麗に完結しているのです。

 

しっかし、細田監督はネットの世界が舞台装置としては好きなのだろうけれど、そこにいる人たちのことは信用してないんだろうなぁ。

 

 

映画「キャラクター」の殺人鬼造形がすごかった話。

映画の花形と言えばやはり殺人鬼だと思うのですよ。

十三日の金曜日の初代ジェイソン、悪魔のいけにえの食人鬼ファミリー、セブンのジョン・ドゥ、羊たちの沈黙レクター博士、SAWシリーズのジグソウ。幽霊や怪物系キャラとは違い、人間の殺人鬼というのは「隣に引っ越して来たらどうしよう」という恐怖があります。

個人的に、「殺人は手段であって目的ではない。(その過程を楽しむことは可)」という殺人鬼が好きなので、映画「キャラクター」の殺人鬼がどういう造形なのかとても気になっていました。

キャラクターは、殺人事件の犯人を漫画のキャラクターにしたら大ヒットしてしまい、後ろめたさを感じながらも漫画を描いていたら、その殺人鬼が「僕を描いてくれてありがとうございます。」とやってくる話です。

漫画家さんなら「僕を描いてくれてありがとうございます。」というやばい人に付きまとわれた経験がある人もいるようですが、この映画ではガチの殺人鬼をキャラクターにしたら本人が嬉しくなって会いに来ちゃって、漫画の再現をせっせとしてしまうというサスペンスホラーです。

映画のストーリーは分かりやすく、しかも伏線回収もきれいなのです。

主人公が漫画がヒットしてから住み始めた家は三重のオートロックのかかったセキュリティ対策万全のマンションで、「もしかしたらあの殺人鬼がいつかくるかもしれない」という不安が感じ取れます。

実家に挨拶に行くのに、自分の家とは思えないよそよそしい雰囲気や不自然とも思える仏壇に手を合わせるシーンと、無駄なものが何一つなく回収されています。

殺人鬼を追う刑事の二人組はベテラン新人というコンビなのですが、警察署内では新人をベテランがたしなめるのに対し、一般人や主人公への聞き込みの際は逆にベテランを新人がたしなめつつスムーズに進めていくという、二人のパワーバランスが分かりやすく描写されています。

そして、主人公の妻のキャラクターも、よくある「いつまでも夢なんか追いかけてないで、将来のことを考えてよ」とは言わず、これで最後と決めて出版社に持ち込みにいったけれど良い結果が得られなかった主人公に対して「続けていいんだよ。」と言う協力的なパートナー。

彼女は主人公の作品ができると一番に目を通し、その才能を理解していて、いつかきっと夢は叶うと信じてくれていたエピソードもくどくなく盛り込まれています。

若い刑事の清田も、主人公が殺人鬼の顔を見たことを黙っていたことを強く責めず、もう漫画は描きませんという主人公に、「山城さんの漫画好きだよ。新作楽しみにしてるから。」と応援してくれてるのです。

主人公の周りには基本彼の理解者で彼を応援してくれる人ばかりなのです。

多分主人公は、なんで皆こんなに僕に優しくしてくれるの?と某アニメの主人公のように感じたでしょう。

それがもしかしたら、「あいつはいいやつだから、悪人は描けない」という言葉に対しての「いいやつだから、みんな応援してるし、絵も上手いから、きっと夢は叶う」という周りからの応援なのかもしれません。

 

そんな主人公の分かりやすさに比べて、殺人鬼こと両角(偽名)はおそらく彼はこういう生い立ちなのだろうという情報はありますが、過去について自分から語りません。

ピンク色の髪に、緑色の地味なジャージと、黒いコートといういでたちで、幸せな四人家族に固執し、奇妙な仕草を見せて、やや幼さの残る口調で話し、時々早口になる青年。

両角の言葉遣いは中学生くらいの少年のような幼さを感じられるのですが、犯行においてはIQの高さを見せて、そのアンバランスさが両角というキャラクターの魅力の一つです。

 

日本の代表的な殺人鬼と言えば「黒い家」の菰田幸子や「オーディション」の山﨑麻美のように、一見おとなしそうだけど、どこか奇妙に感じる造形をしていました。菰田幸子は喋り方や、我が子が首を吊ったのに保険金を求める異常性。山﨑麻美は黒電話の前で長い髪を垂らして延々と座り込んでいる異常性(さらにその部屋の奥にある、中身の見えない袋が動く)。

二人供過去の生い立ちがうっすら見えるのですが、考察の余地というか、考えれば考えるほど恐ろしくなるような恐怖がありました。

両角にも二人に共通するところがあり、彼の生い立ちの詳細には、考えれば考えるほど恐ろしいものがあります。

彼はとあるコミュニティにいたということを察する情報があるのですが、両角自身が語っているわけではないのです。

そのコミュニティは四人家族こそが最も幸福な存在としているのですが、そうだとすると少し不自然な点があります。

両角自身はその幸せを眺めているのです。

彼自身はその幸せの中に入っていないのです。

映画で語られている両角の情報は、四人家族を幸福の最高な形とするコミュニティで生まれた。彼自身には戸籍も名前もない、両角という名前も戸籍を買ったものということ。

両角は「血のつながった幸せな四人家族」に固執していました。養子や再婚、家庭不和のある存在は認めません。

彼はそれを眺めているのです。

自宅に笑顔のモチーフを四つ描いて話しかけているのですが、もし両角自身が幸せな四人家族として完成したいのであれば、顔は三つしかないはずですが、両角は四つ描いています。

これは何を表しているのか。

四人家族が至上とされるコミュニティにいたとして、それを眺める存在となった彼は、そこでどういう扱いを受けていたのか。

ひょっとして両角は、そのコミュニティの中で存在してはいけない五人目の家族として生まれてしまったのか、もしくは病死などで家族が欠けてしまい、四人家族として認められず不遇な扱いをうけていたのではないか。

映画の最後の言葉で、彼にとって自分の存在は周りにはなかったことにされていたのではないかと推測できます。

だからこそ、自分の客観的キャラクターを与えた、自分を大勢の観衆の前に晒し、自分の存在を認めさせた山城に、あんなに嬉しそうに接触したのではないかと推測できます。

両角にとって殺人は幸せな四人家族を永遠にするということだったのではないかと思います。

そこに自分は存在していないし、その中にはいるつもりはなかった。そんなこと考えもしなかったし、誰かが自分の存在を認めるとも思えなかった。

山城が自分を殺人鬼「ダガー」として描くまでは。

分かりやすさやを残しつつ、考察の余地もあり、最後にじわっと嫌な感触を残す映画「キャラクター」は、邦画界の殺人鬼として忘れられない存在になると思います。

この殺人鬼を演じているのが、役者ではなく歌手のFukaseさんなので「本業じゃないじゃん。」と思って観ないでいる方にも是非見て欲しい、名作です。

主人公役の菅田さんにセリフを覚えられず舌打ちされる悪夢を見るほど真剣に映画にとりくみ、なおかつ「役者じゃないのにどうしてこんなに異常者の演技がうまいのか。もしかして身近にいたのか。」と思ってしまうほどの素晴らしい殺人鬼っぷりを演じています。

 

 

 

 

ワンコインのカニ

今週のお題「おうち時間2021」

 

去年のおうち時間何をしていたか、さかのぼって見ると牛の胃袋を煮込んでいました。

いまだに私の大好きなスーパーでは豚バラと同じくらいの存在感でハチノスはいます。

 

そんな私、今年は挑戦した料理があります。

 

カニです。

 

私、カニはどちらかというと好きだけど、カニには悲しい思いでもある方です。

 

かなり前、旅行でとあるホテルに行ったとき、カニが食べ放題ということでウキウキしながらカニの置かれた給食の大きな入れ物のようなところに行ってきたんですよ。

ズワイガニのような細長いカニの足がいっぱいありました。

うきうきしながら足を折ると、糸のように細く儚い身が出てきました。

 

嘘でしょって言いました。若かったから。

 

殻に身がこびりついておりまして、私はどうしようもない気持ちでその身をこそいで食べました。

なんというか、食べてはいけない何かを食べているような、奇妙な食感と微妙な気持ちのこみあげる、無味無臭の食べ物でした。

 

月日は流れ、私は別のホテルに宿泊した際、ズワイガニ食べ放題という言葉に心躍らせてビュッフェコーナーに行きました。

タラバガニの足がずらりと並んでいました。

私は前回の反省を生かし、取り合えず片足分お皿に乗せて席に着きました。

やはり細く儚い身が出てまいりまして、かぶりつきました。

 

しょっぱ。

 

いや鍋に何キロ塩入れてんの??

 

そんな言葉を今度は多少年を取っていたので飲み込みました。

 

カニの香りがし、旨味と甘みが完全に塩味で掻き消されたカニでございました。

 

私はこの時、ケジャンしか勝たん、と思いました。

 

気まぐれクックの金子さんがこよなく愛する生のカニを使った料理。出汁醤油で味付けすればカンジャンケジャン、辛い唐辛子ベースのタレに絡めればヤンニョムケジャン。

鮮魚が日本の専売特許だと思うなよとばかりに、韓国から上陸してきた最高においしいカニ料理は、これまで私を裏切ったことがありませんでした。

 

しかしなぜでしょう。大人になってから食べる茹でたカニはかっすかすの無味無臭か、すべてを覆い隠す塩味。

 

私はもうカニを求めることはありませんでした。

 

しかし、気まぐれクックの金子さんがカニのさばき方を披露し、茹でて食べる姿を見て、もしかしたらカニというのは美味しいのではないかと思うようになりました。

 

そしてやっとその日は来ました。

 

スーパーで小ぶりなズワイガニが500円で売られていました。

明らかに危ない外見と値段。しかし500円なら最悪カニの殻から出汁をとって雑炊にすればいいし、と思い、お買い上げしました。

 

その時私はカニの足を折るのがめんどくさくて、フライパンでカニを茹でました。

 

塩の分量はググって確認しました。

 

そしてゆで時間が経過し、私はカニの足を一本もぎました。

 

出てきた身は外見そのままの細身。しかしきれいにするりと出てきました。

 

いざ、実食。とかぶりつけば、カニの甘味、旨味、カニの香りが口いっぱい広がりました。

驚いてもう一本、さらに一本と気づけばカニの足半分食べていました。

 

こんなに安いカニでもこんなにおいしいのかと、衝撃でした。

 

私がビュッフェで食べたのは何だったのだろう。カニの形をした別の加工品だったのだろうか。

そう疑ってしまうほどの雲泥の差。

 

おそらくこれは私の推測ですが。

私は生のまますぐにゆで上げました。

しかしビュッフェ等で扱っていたカニは、ボイルしたカニを冷凍したものだったのではないのでしょうか。

 

カニの身は魚以上に儚く痛みやすく、解けてしまうと聞きます。

 

安定した量とコストの面を考えて、水揚げしたものをすぐに茹でてしまって商品化した方が流通しやすいのは当然です。

 

カニを貪り食いつくし、私はそっと手を揃えました。