三十路からのデスマーチ

何気ない日常がもしかしたら誰かの役に立つかもしれない。

偶然運転を任せたドライバーがSSRだった「囚人ディリ」

囚人ディリ。2019年のインドで作られたタミル語アクションスリラー映画です。

タイトルから囚人が出てくるんだろうな、脱獄ものかな、囚人のディリさんという人が出てくるんだろうな、とその程度の気持ちで見る気になったのは、インド映画ファンの方々が「囚人ディリが日本の劇場で観れるぞー!!」と沸き立っていたからです。

インド映画はRRRとバーフバリとK.G.F1.2とバンバンくらいしかまだ観ていない私に果たしてついていけるのか、と心配になりましたが杞憂でした。

というのが、観た時がいわゆる応援上映型式だったからです。

しかもチェンナイスタイルという声出しNGで太鼓や鈴、タンバリン等の鳴り物はOKというスタイルだったので注目すべき俳優さんが登場した瞬間に盛大に周りから音が鳴るので、「この人は一見さえないおじさんに見えるけど要チェックな人なんだな」と心構えができたのです。

 

囚人ディリは、孤児院から始まります。

身寄りのない少女アムダちゃんが孤児院の人に呼ばれて、明日貴方に会いにお客さんが来ますよと伝えられます。

両親はおらず、引き取ってくれる親戚もないアダムちゃん。誰だろうと思いながらお友達に「余所行きの服を用意した方がいいよ」と勧められて、可愛いワンピースを用意します。

場面は変わり、マフィアや麻薬を押収する刑事の場面に代わります。

そしてさらに、麻薬をかすめ取られて激オコなマフィアの場面に代わります。

中々出てこない囚人ディリさん。

大量に麻薬を押収してお祝いムードの警察官たち。おいしい料理を宅配でたのみ、お酒も飲み、どんちゃん騒ぎです。しかしそこに交じっていたマフィアのスパイがお酒に薬物を混入。腕を負傷し痛み止めを飲んでいたビジョイ警部のみ。

警察官たちがどんちゃん騒ぎで酒を飲んで昏倒などマスコミに知られてはいけないと警察長官の「誰にも知られないように事態を処理するように」という命令を受けてビジョイ警部はどうしようと焦ります。

ビリヤニ店のトラックに警官を積み込み、病院に行くにはどうしたらいいか。ドライバーが必要です。

そこではっと気づくのです。

うろついていた怪しい男が警察のジープにつながれているのです。

ビジョイ警部が「運転はできるのか」ときけば「できる」と答えたその男こそ、本作のタイトルにもあるディリでした。

鳴り響くタンバリンの音と共に登場したディリを見て、囚人じゃない!と思わず突っ込まざるを得ませんでした。

厳密に言うとディリは元囚人。十年の刑期を終えて急いでいかなければならない場所があるのです。

そう、孤児院にいる自分の娘アムダちゃんを迎えに行かなければいけないのです。

酔っぱらった警察を運ぶなんてことにかまっていられないのですが、ビジョイ警部も崖っぷち状態。お前をまた逮捕してもいいんだぞと脅して、なんとか運転をしてもらうことになりました。

余っていたチキンビリヤニをディリがむしゃむしゃ食べる飯テロシーンをはさみ、ディリを運転手に、ビリヤニ店の青年カマチをカーナビに、ビジョイ警部補は「誰にも知られないように事態を処理する」ために警官を積んで病院に向かいます。

一方その頃、麻薬を押収した警察本部にはマフィアが向かっていました。

ビジョイ警部がマフィアが来るから近隣の警察を呼んで迎え撃つように頼んでいたのに、応援を呼ぶことができなかった警察本部には留置所に入っている犯罪者、飲酒運転で取り調べ中の大学生たちとその恋人を迎えに来た女子大生、そして転勤したばかりで事情もよくわからないナポレオン巡査。
果たしてこの地獄の様な一夜を彼らは乗り切れるのか。

そしてアムダちゃんはお父さんに会えるのか。

 

本作、主人公のディリが寡黙不愛想で最初は渋々嫌々ハンドルを握っているのですが、誰が会いに来るのか気になったアムダちゃんから電話があった瞬間、父親の顔になります。

そして娘に会わなければならないという気持ちバフがかかると、ルンギをひるがえしながらマフィアたちをバッタバッタとなぎ倒す戦士になるのです。

マフィアの集団に対して恐れることなく戦うディリを見て、ビジョイ警部もカマチも、そして初見の観客も「この男、何者なんだ」と恐れおののくわけです。

マフィアにとっては得体のしれない怪物のようなディリですが、娘の前だと一人の父親に戻ります。

マフィアの襲撃で電話を中断させられ、かけなおすも孤児院のスタッフさんに怒られる姿が本当に弱弱しい。頼み込んで写真を送ってもらい、娘の写真を見て泣きながら笑う彼が、どれほど娘が大事か伝わってきます。

そんなディリと同時に進行していくのが、警察本部で籠城戦を強いられたナポレオンたちの物語。彼は一見冴えないおじさんに見えますが、大学生を率いてマフィアの軍団と戦わなくてはいけない絶望的な状況で、最後まで心折れずに戦い抜くのです。

この映画、一本でカーアクションものと、籠城戦ものが同時進行していくのです。

どちらも一本の映画として成立するくらい面白いのに、贅沢すぎます。

マフィアと警察のどんぱちものに、巻き込まれた一般人、そして父と娘のドラマの入った本作。ルンギの翻るアクションがあまりにもかっこよすぎて、公開時期の短さ、劇場の少なさがもったいなさすぎる作品でした。

 

 

 

 

世界を変えた科学者の苦悩の物語「オッペンハイマー」

クリストファー・ノーラン監督の最新作、「オッペンハイマー

実際に存在していたオッペンハイマー博士を主人公にした本作は、公開前からは日本ではいろんな意味で話題になりました。

何故か。

日本の歴史の授業で必ず登場する、原子爆弾の生みの親と言われている人だからです。

原子爆弾と言えば世界で唯一日本でだけ使用された兵器であり、広島と長崎に莫大な被害を与え、多くの人の命を奪った兵器であります。

核兵器は創作で軽率に使用されますが、史実をもとにしているため、重みが違います。日本では特に。

かつてアメリカのとある会社が「何でもない日おめでとう!」とSNSで投稿したのが長崎に原爆が投下された日だったため、日本ではとても大きな話題になりました。

また、あるアーティストの着ていた服が原子爆弾が投下された時に立ち上ったキノコ雲の写真がプリントされていて日本のファンの間で炎上しました。

そしてこのオッペンハイマーアメリカで公開された時に「バービー」という映画と二大ヒット作品になったため、バーベンハイマーというネットミームが登場時、日本のSNSでかなり話題になり、オッペンハイマー絶対見ないと宣言する人が多数いました。

核兵器はともかく、原子爆弾を茶化すことに日本では許されざる行為なのです。

 

かくいう私は、義務教育で反戦教育を学んでいたため、科学者の苦悩という作品の本筋よりも原子爆弾の重みに映画として楽しむことができないであろうと思っていました。

しかし、インターステラーを見た時、クリストファー・ノーラン監督の作った世界を変えてしまった科学者を主人公にした映画ならば、少なくとも誠実なつくりなのではと思い、ノーラン監督を信じてみました。

 

前置きが長くなりました。

観た感想としては、原子爆弾の存在がなければもっと夢中になっただろなと思いました。

オッペンハイマーは少し難解な構成になっています。

そして登場人物も多いです。

事前に公式ホームページで名前を把握し、オッペンハイマーのたどった人生を頭に入れておかないとなにがなにやらわからなくなります。

私は「これはオッペンハイマーの過去と今をいったりきたりする構成なんだな」と思っていると、実はもう一つ仕掛けがあってすべてがつながった瞬間はなかなかに衝撃でした。

そしてキリアン・マーフィーの演じるオッペンハイマーの顔が良くて、散々不倫を繰り返しているのに(キリアン・マーフィーの顔だからな…)と黙らされてしまいます。

オッペンハイマーの計画を進めていくときの生き生きとした表情から段々と暗く重い表情に変わっていく表情の変化が素晴らしい。

 

 

本作、原子爆弾の人的被害が視覚的には登場しません。

セリフに出てくるだけで、原爆資料館にあるような凄惨な画像や作ろうと思えば作れるであろう、惨状の光景が全く挟まれません。

せめて一瞬画像をはさんでもいいのでは?という気持ちと、これは原子爆弾ではなくオッペンハイマーの物語だ、惨状を知った彼の後悔はキリアン・マーフィーが演じているので十分伝わるだろうという気持ちが心の中で殴り合っているのです。

そして世界を変えるほどの兵器がどのようにして日本に落とされることになったのか。

普段なら胸が熱くなる、プロジェクトの進め方や、時間と莫大な費用をかけたプロジェクトが成功した瞬間が、まったく感動しないのです。

劇中で熱い議論を交わす科学者たち、徐々に完成していく兵器、大成功を収めた瞬間の喜び、全部悍ましいものに見えます。

ナチスに先に作らせるわけにはいかないと始めた兵器。しかしヒトラーが自殺してしまいドイツは降伏寸前。すると今度は日本に落とす計画に代わりました。

日本は決して降伏しないと言われて、当時脱出することのできない戦闘機で体当たりを行っていたことを思い出し、何とも言えない気持ちになります。

もしも自分が逆の立場だったら、莫大な時間と費用をかけたプロジェクトが成功して、しかもそれが戦争を終わらせるものだとしたら、喜ばずにいられるか。むしろ誇らしく思うのでは。

自分が落とす場所を決められるわけではないけど、政府の偉い人たちが真剣に考えて、必要な最小限の被害の場所に使うはず、と責任を放棄してしまうのでは。

広島と長崎にどんな被害が与えられたのか知っている今ではなく、アメリカで生きようとしている科学者の一人として、縁もゆかりもない日本の被害をどれだけ気にかけられるのか。

 

本作は決して原子爆弾を肯定する映画ではありません。

しかし本作を見て、あれだけ人を殺した兵器が使った国、使われなかった国からすれば「世界を変える力の象徴」として開発が進んだ事実がとても悍ましいと感じます。

一人の科学者が歴史と大きな力に翻弄される映画としては文句なしの作品ですが、あまりにも大きなメッセージ性に当分頭が支配されそう。しかし、ノーラン監督ファンならきっと、楽しめるかと思います。

 

※以下本作とあまり関係のない感想。

 

オッペンハイマーの人生についてほとんど知らなかったため、浮気三昧をしていたことに「こいつ最低だな!!」と心中で思わず叫びました。

そしてミッドサマーでご存じになったフローレンス・ビューがオッペンハイマーの心をかき乱す謎めく美女として登場。

さらに驚くことにキリアン・マーフィーとフローレンス・ビューのR15シーン。

日本ではビッグネームの役者さんたちの乳首を拝むことなんてほぼないのに、(特に女性)こんなに軽率に二人の全裸を見ていいのかと混乱しました。ボーはおそれている以来の全裸だ!ととにかく宇宙猫顔になっていました。

IQの高そうな濡れ場が展開されて、これ本当に史実なんですか? オッペンハイマー(本物)の残した苦悩に満ちた言葉がこんな濡れ場で出てくるんですか? どこ情報なんですか? とオッペンハイマーもこんな目に遭うなんて予想できなかっただろうなとしみじみしました。

 

 

 

ゴジラVS戦後日本「ゴジラ-1.0」

シン・ゴジラという高い高いハードルに挑む山崎貴監督を心配する声が多かった「ゴジラ-1.0」

シンの次がまさかのマイナスワン。原点回帰としてオリジンやゼロをつけるシリーズは多いけども、それらを振り切りマイナスワン。

しかし作品はマイナスワンどころか歴代ゴジラを超えたという絶賛の評価をつけた人の多い名作です。

 

本作は1945年の日本から始まります。

主人公敷島は特攻隊隊員。飛行機が故障してしまったため急遽飛行機の整備工場のある島に着陸します。橘さんという整備士に「どこも壊れてないっぽいんですけど? 」と言われるも、他の整備士は日本の敗戦を察して、敷島を責める雰囲気はありません。

実際、飛行機の故障で戻ってきた特攻隊の方はいるのですが、彼らの中にはひどく責められたという話もあります。

敷島がやってきたその島には伝承がありました。

深海魚の打ちあがる日は、「ゴジラ」という怪物がやってくると。

案の定。その夜ゴジラが上陸してきました。しかしそのサイズはなんだか小ぶり。

ティラノサウルスを一回り大きくしたようなサイズです。

戦車でなら対抗できそうなサイズですが零戦だとちょっと厳しいサイズ。しかし人間なら命を失うレベル。

橘さんからゴジラを撃てと言われますが、敷島は恐怖のあまり撃つことができませんでした。

橘さんは行けると思ってますけど、観客は「いや無理だよ!」と感じたでしょう。撃ったところで怒ったゴジラに頭を噛まれて大海原に放り投げられるのが関の山ですよ。

からくもゴジラの襲撃から生き延びた敷島。這う這うの体で東京に帰ります。

しかし彼の家は空襲で焼け、家族も消息不明。お向かいに住んでいる安藤サクラさん演じる澄子さんに「なんでお前が生きて戻ってきたんだよ」と詰られる始末。

罪悪感いっぱいで戻ってきた敷島に未来はあるのか。暗澹たる気持ちを観客も味わっていたその時、本作のヒロイン浜辺美波さん演じる盗人に赤ちゃんを託されます。

じつはこの赤ちゃん、盗人もとい典子さんが縁もゆかりもない死にかけた母親から託された女の子でした。人の好さそうな敷島の家に上がり込んだ典子さんは、赤ちゃんのアキコちゃんと一緒にやっと安らかな眠りにつくのでした。

追い出すこともできず、翌朝澄子さんにエンカウントしてしまい、偽善者となじられる敷島。しかし、敷島の曇らせ要因かと思われた澄子さんは母乳がないと知るやいなや大事にとっていた白米を二人に渡します。大人は何食っても生きていけるんだから、これでアキコちゃんのために粉ミルクと交換してこい、という彼女のツンからはみ出た大きなデレ(愛)なのです。

澄子さんは三人子供を育てたと言います。彼女はこのとっておきの白米を、子供たちに食べさせてあげたかったのかもしれません。

しかし彼女は、憎しみすら抱いている特攻隊員の生き残りの家に身を寄せる赤ちゃんをほっておけなかったのです。ここで澄子さんからの曇らせは完全に終了し、後はこの家族を見守り支援してくれる優しいご近所さんポジになります。

さすが三丁目の夕日で日本中に感動を与えた監督。

ゴジラとかいいからこの人たちが戦後の動乱に巻き込まれつつもたくましく幸せに生きている姿を観たい、という気持ちになってしまったとき、敷島は仕事を見つけて帰ってきます。

米国がばらまいた魚雷除去の仕事。大金がもらえますが中々に危険です。

典子さんはそんな危険な仕事やめてくださいと言いますが、敷島は、この二人を養うということに生きがいを感じているのです。なんとか典子さんを説得して仕事に向かいます。

仕事は順調で同僚たちと和気あいあいと進み、親しくなった同僚たちを家に招き食事をするまでの仲になります。

そんな日常がある日突然壊れ、ゴジラとの再会が訪れるとは知らずに。

前半の戦後人間パートから打って変わって襲い掛かってくる災難に、最初のおどおどしていた表情が変わり、ゴジラという神にも等しい巨災に挑む敷島は「神殺し」を決意した主人公へと変貌します。

神木隆之介くんから神木隆之介さんに変わったような面構え。

一人の人間の顔つきをここまで変えてしまうほど、ゴジラとは恐ろしい厄災なのだとスクリーンの前で観客たちはぶるぶる震えます。

さて本作、カラーを抜いてマイナスカラーというモノクロ版も公開されました。

どっちから見たほうがいいのか。

観賞済の方は「モノクロの方が怖い」とのことです。

え……? カラーでもガンギマリで殺意を向けてくるのに?

真っ青になって隆起する背びれが恐ろしいほど絶望感を伴っているのに?

まだ恐怖の伸びしろがあるの?

個人の感想はさておき、マイナスカラーもとっても好評。

ゴジラ史上最もゴジラの顔面に近づき突っ込んでいくのがまさかの神木隆之介という日本画誇る、最古にして最高の怪獣映画。なるべく大きなスクリーンで恐怖を味わっていただくのがおすすめです。

 

 

 

 

 

ファンが公開を終わらせてくれない大ヒット作「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」

予想以上に人気が出てロングランする映画というのはあります。

インド映画で異例の大ヒットをし、なんやかんやで公開期間が延び、応援上映などで不死鳥のごとく復活する「RRR」が最たる例ですが、公式が思ったよりも人気が出すぎてなかなか上映終了しない映画があります。

特典が付けば満席になり、数々の映画が終了していく中客足が途絶えず上映を続ける映画。公式も予想ができなかった事態に「???」となっている作品。観終わった後、クリームソーダを喫したくなる人が爆増し、喫茶店でも寒い時期にあまり出ないクリームソーダの注文が増えてお店の人が「???」となった作品でもあります。

それが「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」

日本で妖怪というコンテンツをキッズにも楽しめるキャラクターものとして完成させたアニメ作品「ゲゲゲの鬼太郎」の最新シリーズです。

本作のアニメは原作のダークな雰囲気を子供向けにまろやかにした作風が大ヒットし、細かい設定や声優を変えつつ、サザエさん並みにご長寿アニメシリーズとして知られています。

ちなみに私は子供の頃、妖怪人間ベムゲゲゲの鬼太郎を夕方に観て、冬のピアノ教室帰りの真っ暗になった道が恐ろしく半泣きで帰ったことがあります。

そんな鬼太郎もアニメ六期が作られ、大きなお友達も「猫娘がやたらかわいくなってる」と驚愕させました。

そして満を持して大ヒットコンテンツが、原作者水木しげる生誕百年を記念して生み出したのが本作「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」です。

ポスター見ました?

血まみれの墓石がずらりとならんだ墓地に同じく血まみれの人物二人、そして一切血を浴びていない、おなじみ鬼太郎が佇む不気味なポスター。

映画学校の怪談シリーズもここまで赤くなかったよ?

血まみれのスーツの男「水木」は鬼太郎の原作、墓場鬼太郎では鬼太郎の養父にあたる人物です。

そして着流し姿の長身白髪は「かつての目玉の親父」。……目玉の親父!?

鬼太郎の作品で主人公と切り離すことができない、目玉の親父。鬼太郎の頭に乗って行動し、視聴者の解説役としておなじみの目玉の親父。登場からすでに目玉状態だった彼は、原作ではエジプトのミイラのような包帯ぐるぐる巻きのガタイのいい男の姿をしていましたが、アニメ開始時にはすでに目玉に手足のある状態。お茶碗でお風呂に入り、鬼太郎がいつも敬い大事にしている家族。

そんな目玉の親父が白髪長身着流し姿。しかもCV関俊彦。なんてこったい、日本のアニメ回で最もお風呂シーンを披露してきて何も言われなかった目玉の親父がかつてはこんな造形だったなんて。今後目玉の親父のお風呂シーンを観るときにはどんな気持ちでみればいいのか。

そう不安に駆られてしまう人もいるでしょう。

しかし、それはあくまで、あくまでも、この陰鬱な物語を少しでも受け入れやすくするためのビジュアルなのです。

「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」

公開からすぐさま某SNSでは「これはあかん。」「本物の因習村だ」「横溝正史に出てくる一族。」「子供に安易に見せたらトラウマになる。」「入村20回目」と阿鼻叫喚狂喜乱舞の大騒ぎ。

何が真実かわからない人狼ゲームが始まってしまった本作の原因は、龍賀一族という本作の現況でもあり因習村の原液の存在です。

この一族の物語で小説が書けるレベルで設定も練りこまれています。

中には「ツイッター(現X)を見て言ったから肩透かしをくらったwww」という人もいますがPG12でその期待はあまりにも重い。でも精神的にはPG15レベルのグロさです。

そんなグロい本作を、なんとか飲み込めるようにしているのは主人公、水木の巧みな人物造形にあります。

戦争帰りの野心家喫煙者でありながら、子供の前では煙草をもみ消し、鼻緒の撮れた草履のお嬢さんがいれば膝と肩を貸してあげてまっさらなハンカチを割いて草履をなおし、野心よりも己の善性のままに斧をふるうことのできる男。

なんだこの因習村は、と観客が青ざめる中、斧を振り下ろす水木の爽快なこと。

本作の結末はどこまでも救いはないのですが、それでも、希望を見出せるあたたかな結末に、すごい映画を観た、という満足感で劇場を後にすることができます。

しかし、SNSを見ると「あそこに〇〇が…。」とあり、え? 見逃した!!と劇場にUターンすることになるのです。

まだ来ていない人も勇気を出して入村しませんか?

空想と救いの物語「屋根裏のラジャー」

あけましておめでとうございます。

今年は清らかな気持ちで映画はじめをしたいと思い、「屋根裏のラジャー」を観てきました。

 

イマジナリーフレンド。

心理学、精神医学における現象名の一つで、子供にしか認知できないいわゆる「空想の友達」もそう呼ばれることがあります。

本作「屋根裏のラジャー」はアマンダという女の子が創造した空想のお友達、ラジャーが主人公です。

ラジャーは自分はいつか消えてしまう存在だと気づきます。

自分と同じように空想上の存在が近所にいたのですが、彼は空想の主が自分を認知できなくなり、消えかかっているのです。自分もアマンダに忘れられてしまうと、ああなるのかとぞっとするラジャー。そしてその日は突然やってくるのです。

本作は、二つの物語が同時に進行します。

一つは、心に空白を抱えたアマンダの、成長の物語。

もう一つは、イマジナリを手放すことができなかったミスター・バンティングの物語。

交通事故で病院に運ばれたアマンダ。自分が消えかかってしまったことにより、ラジャーはアマンダが亡くなったのだと思います。

消えかかったラジャーはジンザンといオッドアイの猫(CV山田孝之)に案内され、イマジナリたちの住む図書館へ連れていかれます。

そこで姉御肌のエミリに、子供たちが空想を必要としなくなり、消えるしかなかったイマジナリたちはこの図書館から空想の力を得て、生き延びていることを教えてもらいます。

この図書館にはイマジナリの住処だけでなく、仕事もあります。

出張という形で子供たちの空想世界で働き、そこから食料を調達して戻ります。

中には呼ばれた子供の専用イマジナリとなり、図書館に帰らず子供のそばに居続けるイマジナリもいます。

イマジナリは子供たちと自分たちはいつかは別れる運命だと知っています。

しかし、中にはそれを拒むものもいます。それがミスター・バンティング。

自分のイマジナリだった女の子との別れを認められず、彼が選んだのは他者のイマジナリを食らい、彼女が消えないようにすること。

そうして執着し続けたイマジナリは青白く冷たく、腐臭の漂う女の子になってしまったのです。

バンディングはラジャーが素晴らしいイマジナリであること、そしてラジャーは、アマンダの深い悲しみから生まれたことを明かします。

自分の存在が消えないとアマンダの悲しみは消えないのかと苦悩するラジャーでしたが、彼はアマンダが必要としたから生まれた存在。アマンダが自分を忘れてしまっても、彼女との再会を選び安全なイマジナリの街から飛び出します。

 

本作のイマジナリは、子供の空想というキラキラしたファンタジックな世界で生きているように見えますが、ラジャーを生み出したアマンダは、ラジャー自身も知らない深く、大きな悲しみを抱えていました。大きなぽっかりと開いた胸の空洞を埋めるために、ラジャーは存在していました。

ラジャーが認知できなくなることは、アマンダにとっては傷が癒えていく、悲しみが薄れていくことの現れなのでしょう。

同時にアマンダはラジャーに救われたという証明なのです。

 

さて、イマジナリというか空想とは子供だけを救ってくれるものなのか。(現X)を見て成人していても救われている人がいると気づきました。

まぁ、それはイマジナリというよりも「推し」なんですがね。

しかしこれがなかなか馬鹿にできないもので、心の支えとして十分な力を発揮します。

ですが、イマジナリと同じように、誤った執着をすると腐敗し身を滅ぼします。

用法容量を守って適切な関係を保ちたいものです。

 

 

 

以下ネタバレ含む感想。

 

私は動物に弱いので、本作でアマンダのお母さんリジーのイマジナリ、冷蔵庫が出てきたときには号泣しました。

ジーをへびから守ってくれた大きなふわふわの犬、冷蔵庫。

彼はリジーの幸せを願い、イマジナリの街で暮らしています。

この冷蔵庫、イマジナリの街にはいますが、子供たちの空想に出張している様子がありません。

それはまるで、他の子の専属イマジナリになり、リジーの作った自分が消えてしまうのを恐れているようです。

彼はリジーとの思い出を抱き続けたいのかもしれないと思い、また号泣しました。

また、リジーも愛猫に「オーブン」という名前を付けていた様子からして、冷蔵庫のことを完全に忘れているわけではないようです。アマンダにせがまれラジャーのためのココアを用意してくれるところは、ただめんどくさいからそうしようというだけには思えないのです。

対してバンディング。

彼が自分のイマジナリに用意したのはグラスの水。

自分は抹茶カフェラテを飲んでいるのに対し、お冷です。

もしかしたら彼のイマジナリは冷たい水しか飲まないという込み入った設定があるのかもしれないのですが、最期に抱きしめられた時に彼女だと気づかなかったところからしてお前はもう何がしたかったんだよ!!!とこぶしを握ってしまいました。

執着し続けたバンディングの女の子は屍みたいなのに、冷蔵庫はお爺ちゃんですが温かくふわふわした毛並みなのを見ていると、これがお前の望みなのかよ!!!!と憤りを感じます。

イマジナリが見えなくなってしまっても、忘れてしまっても、それが自分の一部だったことは間違いないのだと思わせてくれる本作。子供よりも大人の方がほろっときてしまうかもしれません。

 

美しいのは死か生か「死が美しいなんて誰が言った」

一人で作ったアニメ映画「アラーニェの虫籠」が一時期話題になりましたが、この冬、画像生成AIとモーションキャプチャー技術、ゲームエンジンとして有名なUnityを使用することで少人数で完成させた作品「死が美しいなんて誰が言った」が公開されました。

完成したのです。

出来栄えは置いておいて完成したのです。

世の中には素晴らしいアニメ作品がたくさんありますが、ともかく少人数で作成することに成功したのです賛否両論あれど、完成したのです。

夏休みの自由研究に、塩の結晶を持って行く子もいれば、牛乳パックで作った貯金箱を持って行く子もいます。期日までに完成させることに意義があるのです。

予告を観て「わぁ。PS2時代のCGみたぁい」と思いましたが本編も割とPS2でした。

中には「これは、バグ? 」というような謎の空間もありましたが、ともかく完成しました。キーアイテムになる家族写真が「全然似てないじゃん!他人じゃん!」と思えてもとにかく完成しました。

大きなスクリーンだからこそ、目立つ粗。

しかし映像の粗そのものはゾンビ映画だからか、終始暗い画面ではそんなに気にならなかったりします。

主人公骨折してない? と思うシーンもありますが、主人公はゾンビになりかけという設定を最大限活用します。

そして、セリフで説明させることにより、尺を稼いだりします。

いじめにあっていたこと、両親の仲が良かったこと、全部セリフで説明します。

ワンカット、同級生にいじめられているシーンをはさんだり、家族のシーンを入れるだけじゃん!というのは素人の浅知恵です。少人数で作っているのですから。セリフで賄えるところはセリフで賄うのです。

しかし声を吹き込んだ方々の演技力が素晴らしい。

最初は「気持ちはわかるけど好きになれない」と思っていたキャラクター一人一人に、好きかどうかは置いてなんだか魅力を感じたりします。

主人公:詩人のレイ君。本作が12話のアニメとかじゃなくて良かったと心から思えるほど、口だけで行動しない、ずっとうじうじしている主人公。ゾンビに食われたり殴る蹴るの暴行を受けたりする。そんな彼が最後は…

ヒロイン1:主人公の妹のユウナちゃん。冒頭からもう精神が限界状態の女の子。塀の向こうに天国を見出しているけれどどう見たってあっちも地獄。元々素質があったのか、きっとお兄ちゃんとは違う世界が見えている。

ヒロイン2:リカ先生。二人を見守るキャラぶれぶれのセクシー女医。怪しい裏取引をしていたり、何故か使い慣れた銃を持っている。たぶんすでに何人か撃ってる。主要人物の中で唯一衣装差分がある。映画を紹介するサイトによっては重要なネタバレをされていたりする。

ヒロイン3:主人公に最後まで付き合ってくれる密航業者のタキシバさん。主人公を殴る蹴るしてきますが、生きることに後ろ向きな主要キャラの中で唯一生きることに全力を注ぐ関西人。やってることは汚いけど一番きれいな生き生きとした表情をしている。

 

この四人がネームド主要人物なのですが誰に対しても「気持ちはわかるが好感度は低いし死んでも悲しくない」という印象を与えます。

ゾンビ映画では重要です。死んでも悲しくなキャラクター。人が死ぬたびに泣いていたら涙でスクリーンが見れませんから。

とにかく全員が好き勝手に行動しているので、誰も他人を思いやる気持ちがゼロ。

それが死の淵に立ち、もう終わりだと悟ったときに、あふれ出すのです。生きている間に被っていた、理性や恐怖や憎悪や後悔がどろどろと溶けて中身が出てくるのです。

登場の時には一切なかった、キャラクターの魂の叫びが、表面が削がれてあふれ出すのです。

死は美しくなんかないし、好き勝手に生きようとする登場人物たちは決して美しく見えない。しかし、終わりを悟った時の最後の姿が美しく見えるのです。

私はリカ先生のあのシーンを観た瞬間、映画のチケット代の元は取れたと感じました。

がしかし。同時期に公開される映画が、ゲゲゲの謎、窓際のトットちゃん、そしてディズニー100周年のウィッシュ。そこに並べるというのはあまりにも酷い。

予告を観て、制作会社の配信動画を見て、それでも観ようと思った人にはきっと楽しんでいただける本作。クリエイターを目指す人には、少人数でアニメを作るという過酷さを学べる本作。楽しませてもらうつもりではなく、何かを学び取ろうとする姿勢が大事な映画です。

ちなみに、役者さんとテーマ曲が挿入されるタイミングが100点満点です。

 

 

 

見る世代にとって感想の変わる「窓際のトットちゃん」

令和の後半はシスに始まり、ゴジラ-1.0やゲゲゲの謎等、戦後を描いた作品が大人気になりました。

そんな中満を持して公開された「窓際のトットちゃん」は黒柳徹子さんの幼少の頃の体験を描かれた本が原作となっています。

映画で描かれるのは戦前の時代、トットちゃんがトモエ学園にやってきて疎開するまでの間。

本作、SNSでは「予想外に戦争の描き方がえげつない」と高評価を得てトレンド入りし、多くの人から絶賛されています。

戦争という知識の乏しい子供時代に見れば、トットちゃんの身の回りの変化は「戦争時代だから。」と思う程度です。

何故なら、本編の悲しい出来事は戦争によって引き起こされたものではありません。

それだけに、本作は「戦争」を描いた作品の中では最も恐ろしい描かれ方をしているかもしれません。

主人公トットちゃんはあまりにも落ち着きがないため、学校側の要請で転校させられるという始まりをします。困り顔のママは好奇心旺盛な娘の自主性を尊重したいと思いつつも、社会性を身に着けさせるためには学校に行かせなければいけません。幸い、トットちゃんが良い子だと理解してくれた校長先生に受け入れられ、新しい学校がきまりました。友達もでき、毎日ご機嫌で学校に通います。
トットちゃんのおうち黒柳家はとても裕福なおうちで、朝食にも色鮮やかなサラダが並び、お父さんはコーヒー豆を朝から挽いて、お母さんはトットちゃんのために桜でんぶを使った色鮮やかなお弁当を用意してくれます。家具や料理、そして愛犬のシェパードから戦前の日本人の暮らしはこんなにも豊かだったのかと伝わってきます。
しかし、トットちゃんの日常がじわじわ変わっていきます。
劇的にではありません。春から夏に代わるように、戦争という時代が豊かさを徐々に奪っていくことが世界観として盛り込まれて行きます。

お小遣いでキャラメルを買っていたのに、キャラメルがなくなり買えなくなり、色あざやかだったトットちゃんのお弁当が梅干一個から豆に変わっていきます。そしてトットちゃんがいつも頭に乗せていたリボンがなくなり、みんなカラフルな色の服を着ていたのに、国民服に変わっていくのです。

本作、日常は戦争に侵食されて行くのに、トットちゃんにとっての悲劇が戦争によって起こされることが明確に描かれるのは最後に学校が燃えるシーンくらいです。

 

作中でお祭りに行ったトットちゃんが親にねだりひよこを買ってもらいますが、ひよこは数日後に死んでしまいます。

トットちゃんは手の中でぴよぴよと鳴いていたふわふわのヒヨコが、動かず鳴きもせず静かにしているのを見つめて悲しみます。

そんなトットちゃんへ、友達の山本君は「ひよこはトットちゃんに会えて幸せだったよ。」と励まします。

さて、時は流れ、トットちゃんの家からあるものが消えます。

愛犬のロッキーです。

転校した時、トットちゃんが首に定期を下げてあげたロッキー。

トットちゃんの友達であり、ひよこが亡くなった時無言で彼女を慰めていたロッキー。

お友達とケンカした時も、トットちゃんを慰めようと必死になっていたロッキー。

無人のロッキーの小屋には、ロッキーのぼろぼろになった首輪が置かれています。

あまりにも突然いなくなったので、ロッキーはどうなったのか、映画だけではわかりません。

トットちゃんは戦争なんか嫌だ、とは劇中では言いません。日常として受け入れているのです。お腹が空いても疎開で友達と離れ離れになっても、素敵なおうちが壊されても。
コロナ前と劇的に生活が変わったのに、それを受け入れた日本のように。
戦争もこんな風に日常を変えていくのかと、気が滅入ります。

そんなわけで大人になればなるほど、描かれていないものの存在が気になりつらくなる本作。不穏な世界情勢の今こそ観ることで自分の価値観が変わるかもしれません。